「東方の博士たちの礼拝」

 

マタイ 2章1-11節

 

 この物語は、教会に真理を求め来る人の姿に重なります。偶然(神にとっては必然)導かれ、救われる人たち(羊飼いたち)。真理を探究し、救いに入れられる人たち(東方の博士たち)と大まかに二種類の救われ方があると言われます。

 

1.エルサレムで礼拝しようとする博士たち(マタイ2:1-8)

 「ユダヤ人の王としてお生まれに」(2)なるお方であれば、王宮で生まれるのが当たり前。その前提で東方の博士らは、ヘロデ大王の許を訪ねました。しかし、ヘロデ大王は前王朝から玉座を簒奪した王であり、ユダヤ人たちの中にも彼を正当な王と認めない者たちが居た時代です。

 「王は動揺した。エルサレム中の人々も王と同じ」(3)。他者から簒奪した王は、自分もまた簒奪される事を恐れます。罪を自覚しても尚、救いを拒む姿がここにあります。それでも聖書を調べ、ミカ書5章2節からベツレヘムを導き出したヘロデは、ユダヤ人らを遠ざけた上で誕生の時期を知り(7)、博士らを送り出します(8)。それは、幼子イエスを殺すためでした。

 

2.「幼子を見、ひれ伏して拝んだ」東方の博士たち(マタイ2:9-11)

 恐れ、否定し、殺そうとするヘロデ大王と対照的なのが、東方の博士たちの信仰と礼拝の姿です。彼らは探究者であり、彼らは星の出現から何時頃、どの場所で救世主がお生まれになるのかを探し求めた者たち(真理の求道者たち)です。時間、労力、財産、それらを惜しむことなく用いてでも救世主であられる御子イエス・キリストを探し求め、見出した人々(探究者「高価な真珠のたとえ」マタイ13:45-46.箴言3:15。対比マタイ5:44偶然「畑に隠された宝」)です。

 「黄金=王権・主権」「乳香=聖なるお方」「没薬=十字架の死」を現す、三種類をキリストへ献げ、このお方こそが世界を救ってくださるお方であるという信仰を持って礼拝しました。これらの宝は、エジプトへ逃亡するイエス親子の逃亡資金として用いられたことでしょう。人を騙すヘロデ王の企みは、神には通用しません。夢のお告げにより博士らはヘロデ王に会わずに別の道を通り、帰国しました。正に、神のご計画だけが成るのです(箴言19:21、イザヤ14:27)。

 

結論 「何を見に行ったのですか。柔らかい着物を着た人なら王の宮殿にいます」(マタイ11:8)とは、正にヘロデ王のような支配者層に対し、「人の子には枕するところもありません」(マタイ8:20)とイエスは言われます。貧しい大工の息子として馬小屋で生まれ、エジプトへ逃亡し、ナザレで育ち、30代まで家族に尽くし、3年半という短い公生涯を送られたイエス・キリストは、全ての人を救うため十字架で贖いを遂げられました。クリスマスを感謝しましょう。