■聖句 創世記3:6-7
6 女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。
7 すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。
まんまとサタンの欺きに騙されたエバは、サタンがエバに木の実をとって与えたように、アダムにも与え、エバを愛するあまり、彼は神の警告をわかっていながら、神の警告ではなく、エバと運命をともすることを選んで、こうして、罪が人類にはいってきました。
聖書のいう罪とは、神のご命令に背くことです。
創造主である神に創造されたものすべては、人類を含め、被造物と呼ばれますが、
人類は、他のものと違って、自由意志を与えられています。それは、ロボットのようではなく、心からの愛をもって、神を愛し、神に奉仕するように望まれているからでした。
人類だけが、神の律法を理解し、自由意志を働かせ、善悪を判断する能力や、永遠のことを思う思いを与えられています。人を愛し赦すことができるのも、人間だけです。
*ローマ5:13
<律法以前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪として認められないのである。 >
*伝道3:11
<・・・・神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。>
5.罪を犯した後の二人
罪を犯した後の二人について、預言の霊は次のように語っています。
『アダムは、罪を犯した後で、まず第一に、自分がしたこれまでより高い存在状態に入ったような気がした。しかし、間もなく、罪の意識は彼の心を恐怖で満たした。これまでなごやかで一様だった気温が、罪を犯した二人には肌寒く感じられた。これまで彼らの心に宿っていた愛と平和はなくなり、その代わりに罪の意識と未来への恐怖と魂の空虚さとを感じた。彼らを取り巻いていた光の衣は消えてしまった。それで、彼らは、その代わりに衣服を造ろうとした。彼らは何も着ないで、神と天使たちに会うことはできなかった。』(人類のあけぼの上巻45p)
彼らは、裸でしたが、衣の代わりに、光の衣が与えられていたのです。しかし、罪を犯したためにその光の衣は、消え去り、裸であることを認識するようになったのです。
この参考文献には、罪の特徴が描かれています。
まず、罪の意識(良心の呵責)、未来への恐怖(死ぬこと)、魂の空虚さです。
そして、神と天使たちに、自分たちのはだかを見られることに羞恥心が働いたのです。
サタンは、人類に罪を犯させ、勝利しました。彼らは罪の正体を知るようになりました。
6.いちじくの葉は罪を覆わない。
二人は、目が開け、裸であるのを意識するようになったので、いじちくの葉をつづり合わせて、衣にしました。これにも意味があります。
『アダムとエバは共に果物をたべ、そしてある知識を得た。それは、神に従っていれば、決して持たなかったであろう知識である。それは、神への不従順と不忠実の経験、自分たちは裸であるという知識であった。無垢の衣、彼らを包んだ神からの覆いは取り去られた。そして彼らは腰を覆うためイチジクの葉を縫い合わせることによって天の衣の代用とした。
これは、神の律法の違反者たちがアダムとエバの不従順の日から使った覆いである。彼らは罪によって生じた裸の恥を覆うために、共にイチジクの葉の覆いを縫っている。イチジクの葉は不従順を覆うために用いられる議論を表している。主が男女の注意を真理へ喚起するとき、魂が裸であることを隠すためにイチジクの葉を押し大いにする働きが始まる。しかし罪人の裸は覆われない。この浅薄な働きに関心を持っている人々によって継ぎ合わされたすべての議論は、無に帰するであろう。』(レビューアンドヘラルド1901年6月4日)
不従順という罪の結果、裸であることを知り、いちじくの葉で腰覆いを作りましたが、彼らの罪を覆うものではなかったのです。
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