意外すぎる聖書のおはなし -5ページ目

意外すぎる聖書のおはなし

聖書ってそんな話だったの?イメージと違っていた意外なストーリー展開にびっくりしたことを書いてます。

 

 

 

 

聖書の中で落穂拾いをしていたルツの

 

結婚秘話です。

 

 

古代イスラエルの結婚式の衣装がわからなかったので

 

お内裏様とお雛様が登場しちゃいました。

 

 

 

 

ルツとボアズの馴れ初めは

 

「どういう関係ですか?」の記事に書いたので

 

今回は結婚に至る経緯です。

 

 

 

彼らの結婚にはモーセの律法が関係しています。

 

律法のどんな事柄かというと

 

相続に関する話です。

 

 

 

律法では、神様がイスラエルの民に嗣業を与えています。

 

 

嗣業(しぎょう)ってなに???

 

 

神様によって分け与えられ、

 

受け継ぐべき財産のことで

 

特に土地についてみたいです。

 

 

神様から与えられた土地は

 

先祖代々大切に管理し、

 

子孫が受け継いでいきます。

 

 


旧約聖書

〔民数記27章8節-11節〕

 

 

あなたはイスラエルの人々に言いなさい、

『もし人が死んで、男の子がない時は、

その嗣業を娘に渡さなければならない。

もしまた娘もない時は、

その嗣業を兄弟に与えなければならない。

もし兄弟もない時は、

その嗣業を父の兄弟に与えなければならない。

もしまた父に兄弟がない時は、

その氏族のうちで彼に最も近い親族に

その嗣業を与えて所有させなければならない』。

 

主がモーセに命じられたようにイスラエルの人々は、

これをおきての定めとしなければならない」。

 




ルツのしゅうとのナオミは夫のエリメレクを亡くし

二人の息子も亡くし、

二人の息子には子供がいませんでした。




本来ナオミの夫エリメレクのもつ財産は、

夫エリメレクの兄弟か

 

親せきが所有することになりますが

聖書にはエリメレクの兄弟は登場しておらず、

親せきがいることが書かれています。



聖書の中でナオミがルツに

「あなたはボアズの所に行ってこうしなさい」と言って、

ルツがボアズのところに行って

 

言われた通りにしたことは

 

当時でいう求婚のメッセージだったようです。

 

 

 

 

ナオミは親戚であるボアズに

 

ルツを娶ってもらいたいと考えていることや

ナオミが亡き夫エリメレクの財産を

親せきであるボアズに

 

相続したいと考えていることに

 

ボアズは気付きます。




ナオミのメッセージを察したボアズが

ルツにこう言いました。

 


旧約聖書


〔ルツ記3章10節〕

ボアズは言った、

「娘よ、どうぞ、主があなたを祝福されるように。

あなたは貧富にかかわらず

 

若い人に従い行くことはせず、

あなたが最後に示したこの親切は、

さきに示した親切にまさっています。」

 

 





そして、ルツをナオミのもとに返した後

ナオミに最も近い親せきに声をかけ、

町の10人の長老の仲介のもと

相続について正式に取り決めをします。




ナオミが夫エリメレクの地所を売ろうとしてるけど、

あなたは買い取りますか?

もし買い取るならモアブの女ルツをも買って、

エリメレク一族の子孫を残さなければならないよ、と。




そしたら一番近い親せきの人は、

そんなことしたら自分の嗣業をそこなっちゃうから

ボアズがやりなさいと返事をしました。



ルツを買い取るっていう表現がびっくりでしたが

 

ルツもエリメレクの嗣業の一部という

 

意味なんでしょうか。

 

 


ところで、近い親戚が

 

ルツを娶るのを拒否した理由はこちらです。

 

 


旧約聖書

 

〔申命記23章3節〕

アンモンびととモアブびとは

 

主の会衆に加わってはならない。

彼らの子孫は十代までも、

いつまでも主の会衆に加わってはならない。

 



この律法がありながら、

 

ボアズは自分の遠い親戚ににあたる

 

エリメレクの嗣業を絶やさないために

モアブ人のルツを娶ったんですね。




そんなわけで、本来相続権を持つ

 

近い親せきが相続放棄したから

 

長老たちがいる前で

ボアズが正式にエリメレクの財産をすべて相続し

ルツを娶りました。


そしてルツが男の子を産みました。

 

 

 

〔ルツ記4章16~17節〕

 

そこでナオミはその子をとり、

ふところに置いて、養い育てた。

近所の女たちは

 

「ナオミに男の子が生れた」と言って、

彼に名をつけ、その名をオベデと呼んだ。

 



あれれ?

 

実際に子供を産んだのはルツなのに

 

なんでナオミに男の子が生まれたって言ってるの?



ナオミは自分の孫のようなオベデを

エリメレクの財産を相続する

 

養子という立場にして育てたという話のようです。



このオベデという男の子の息子が

 

エッサイで

 

エッサイの息子が

 

のちにイスラエル2代目の王様になる

 

ダビデ王です。

 

 

 

あ、そういう繋がりでしたか!

 

 

 

こうやって見ると

 

聖書の登場人物が

 

いろんなところで繋がってますね。

 

 

 

パズルのピースが少しずつ埋まっていくと

 

これまた意外な事実がわかってくるかもしれません。

 

 

 

 

 

今日は「怒」についてのお話です。

 

 

 

旧約聖書で、

 

神様の喜怒哀楽がわかる場面がたくさんあります。

 

だれだれが主の前に罪を犯し、主の怒りを引き起こした。

 

と、書いてあるので、

 

「神様って怖そうだなー」と思ってました。

 

 

 

ところで、神様が怒ったり、嘆いたりしてるときは

 

聖書によれば

 

人間が神様の前で罪を犯してるときですが

 

じゃあ「罪って何?」って思いますよね。

 

 

 

どこが神様の怒りのツボなのかわからないと

 

どこで地雷を踏むか予想がつかないから

 

神様の前でびくびくしちゃいそうですが

 

その基準は意外にもシンプルで

 

律法を守っているか守っていないかでした。

 

 

 

つまり、律法を守っていることが

 

主の前に良しとすることで

 

律法を守っていないことが

 

主の前に罪を行ってることです。

 

 

 

じゃあ、律法って何?

 

 

 

律法の内容が膨大過ぎて書ききれませんが

 

律法の核心をわかりやすく伝えてくれたのは

 

新約聖書に登場するイエス・キリストです。

 

 

 

イエスが伝えたこの2つの言葉を

 

守っているか守っていないかで

 

神様が人間にどう反応したかが大きく変わってます。

 

 

 

まずひとつめが

 

心、精神、思いを尽くして

 

主なるあなたの神を愛すること。

 

 

 

もうひとつは

 

自分を愛するようにあなたの隣り人を愛すること。

 

 

この隣人愛に関連してそうな律法がこちら。

 

 

 

旧約聖書

 

〔出エジプト記22章21-27節〕

 

あなたは寄留の他国人を苦しめてはならない。

 

また、これをしえたげてはならない。

 

あなたがたも、かつてエジプトの国で、

 

寄留の他国人であったからである。

 

あなたがたはすべて寡婦、

 

または孤児を悩ましてはならない。

 

もしあなたが彼らを悩まして、

 

彼らがわたしにむかって叫ぶならば、

 

わたしは必ずその叫びを聞くであろう。

 

そしてわたしの怒りは燃えたち、

 

つるぎをもってあなたがたを殺すであろう。

 

あなたがたの妻は寡婦となり、

 

あなたがたの子供たちは孤児となるであろう。

 

あなたが、共におるわたしの民の

 

貧しい者に金を貸す時は、

 

これに対して金貸しのようになってはならない。

 

これから利子を取ってはならない。

 

 もし隣人の上着を質に取るならば、

 

日の入るまでにそれを返さなければならない。

 

 これは彼の身をおおう、ただ一つの物、

 

彼の膚のための着物だからである。

 

彼は何を着て寝ることができよう。

 

彼がわたしにむかって叫ぶならば、

 

わたしはこれに聞くであろう。

 

わたしはあわれみ深いからである。

 

 

 

 

 

「怒りが燃え立ち、剣をもって・・・」

 

っていう箇所にびびりましたが

 

弱い立場の人々を悩ます行為について

 

猛烈に怒っている神様の心は伝わりました!

 

 

 

律法の中で、貧しい人々のために

 

収穫物を取りつくさないようにとおっしゃったり

 

器に入れて収穫するのはだめだけど

 

麦の穂を手で積んだり

 

ぶどうの実を飽きるほど食べていいとおっしゃるくらい

 

貧しい人々を守る神様で

 

 

 

社会的に弱い立場の人々を虐げたり利用する行為は

 

断固として許さないという立場のようです。

 

 

 

相手に配慮し

 

相手の弱みにつけこまないということも、

 

隣人愛のうちかもしれません。

 

 

 

 

こうやって読んでみると、

 

神様の怒りは、

 

その時の虫の居所がどうとかじゃなくて

 

あらかじめ律法で人々に伝えて

 

彼らもそれらを守りますと約束していた事柄だったから

 

人々が無視したり守らなかった時に

 

それはルール違反じゃないかと

 

怒りを露わにしていたということでしょうか。

 

 

 

 

今まで、神様の怒りが強烈過ぎて

 

あわれみ深い神様っていう部分が

 

全然入ってませんでした。

 

 

 

どうやら神様は思ったより理論的で

 

弱い立場の人々に理解を示す

 

思いやりのある方のようです。

 

 

 

 

 

 

 

キリスト教を語る上で欠かせない隣人愛。

 

 

 

新約聖書の中で

 

イエスキリストが語った有名な言葉ですが

 

ルーツはモーセの律法でした。

 

 

 

まずはイエスが語った言葉から。

 

 

新約聖書

 

〔マタイによる福音書22章37-39節〕

 

イエスは言われた、

 

「『心をつくし、精神をつくし、

 

思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。

 

これがいちばん大切な、第一のいましめである。

 

第二もこれと同様である、

 

『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。

 

 

 

隣人愛のルーツとなるモーセの律法はこちら。

 

 

 

旧約聖書

〔レビ記19章17-18節〕


あなたは心に兄弟を憎んではならない。


あなたの隣人をねんごろにいさめて、


彼のゆえに罪を身に負ってはならない。

あなたはあだを返してはならない。


あなたの民の人々に恨みをいだいてはならない。

 

あなた自身のように

 

あなたの隣人を愛さなければならない。


わたしは主である。

 

 

 

ほんとだ!

 

 

あなた自身のように

 

あなたの隣人を愛さなければならない

 

 

って言ってますね。

 

 

そして、こっちにもありました。


 

 

〔レビ記19章34節〕

 

あなたがたと共にいる寄留の他国人を、


あなたがたと同じ国に生れた者のようにし、

 

あなた自身のように

 

これを愛さなければならない。


あなたがたもかつて

 

エジプトの国で他国人であったからである。

 

わたしはあなたがたの神、主である。
 


 

ここでは寄留の他国人について語っています。

 

 

 

モーセはイスラエルの民が

 

エジプトで奴隷生活に苦しんでいたところ

 

神様から言われてイスラエルの民をエジプトから導き出し

 

のちにシナイ山で神様から律法をもらいました。

 

 

 

このような経緯があり

 

かつてイスラエルの民も

 

同じ境遇だったのだから

 

自分たちと一緒に暮らす外国人に対して

 

同じ国に生まれた者のようにし

 

あなた自身のように愛しなさいと

 

おっしゃっていたんですね。

 

 

 

 

自分の主観で他人を見ると

 

「なんでこの人ってこうなの?」って

 

いろいろ思ってしまうことがありますが

 

相手の立場や境遇を知ることで

 

「ああ、そういうことか。」って理解できたり

 

相手に対して

 

以前より優しい気持ちで対応できたりします。

 

 

 

 

今まで

 

自分自身のように隣人を愛するっていうのが

 

具体的にイメージが湧きにくかったんですが

 

自分のことのように

 

相手の状況や立場を理解するところからが

 

始まりなんだなあと

 

この聖句を通して教えてもらいました。

 

 

 

隣人愛の言葉に

 

こんな背景があっったとは知りませんでした。

 

 

 

 

 

 

 

お行儀についてびっくりしちゃった話です。

 

 

 

みなさん、お食事はちゃぶ台派ですか?

 

テーブル派ですか?

 

朝は忙しいから台所で立って食べてる?

 

 

 

今日の話は

 

イエスキリストが最後の晩餐で

 

ちゃぶ台使って食事してたという話ではありません。

 

 

 

 

その頃、どんな風に食事してたかは

 

聖書に具体的に書かれてないのですが

 

当時のイスラエルでは

 

寝そべって食事する習慣があったそうです。

 

 

 

 

え?

 

 

寝そべって食事・・・!?

 

 

 

むせちゃったりしないの?

 

 

 

 

ところで

 

寝そべって最後の晩餐をするとしたら

 

どんな構図になるんでしょうか?

 

 

 

みんなで車座になって食べ物を囲み

 

片方はひじをついて片方は食事を手にとって

 

という感じのようです。

 

 

 

つまり、

 

中央に食べ物とみんなの頭があって

 

外側はみんなの足があったんですか??

 

 

これは予想だにしなかった構図でした。

 

 

 

 

レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた

 

最後の晩餐の長テーブルは

 

全員の顔を見せる構図にするために

 

細長いテーブルの設定にしたんだろうなあと思ってましたが

 

そもそもテーブルじゃなかったんですか!!

 

 

 

 

その時代は寝椅子というものが存在したようなので

 

寝椅子の高さに合わせた低めのテーブルはあったようです。

 

最後の晩餐に

 

寝椅子と低めのテーブルが使われたかどうかはわかりませんが。

 

 

 

 

それにしても

 

食事のマナーが

 

時代によってこんなに違うとは。

 

 

 

 

2千年という歳月は

 

私たちが当たり前にやってるいろんなことが

 

別の常識の中で進んでいた時代なのだと思ったら

 

他にもいろんな場面が

 

私のイメージと全然違う光景な気がしてきました。

 

 

 

 

 

 

 

 

今までちんぷんかんぷんだった話が

 

少しわかってきた、という話です。

 

旧約聖書でも

新約聖書でも

度々登場するのは「モーセ」と「律法」です。




モーセの律法について知らないと

旧約聖書の内容も

イエス・キリストが伝えている内容も

 

実はよくわからなかったりします。




テストの範囲が広すぎて

どこを勉強すればいいかわからないー!!

っていう時に

とりあえずここだけはやっとこう、と

手をつける箇所があるとすれば



聖書においては

モーセと律法かもしれません。

 

旧約聖書に出てくるモーセは

イスラエルの民をエジプトから導き出し

神様から律法をもらい

イスラエルの民に伝えました。




ユダヤ教の要ともなる律法を伝えたモーセは

ユダヤ教を語る上で

欠かせない重要な預言者です。

 

 

モーセっていつの人?



諸説あるようで

紀元前1500年代前後とも

紀元前1300年代前後とも



言われているようです。



じゃあ、イエス・キリストは???


イエス・キリストは

紀元前4年頃産まれたようです。

30歳頃から福音を宣べ伝えますが

多くのユダヤ教の宗教者たちからあやしまれました。



彼や彼の弟子たちが律法を守ってないんじゃないか

と思う人々がいたようです。

 

けれど、イエス本人は

自分は律法や預言者たちを廃するためでなく

成就するために来たと話しました。



そして

聖書(旧約聖書)は私について証するものだ

とも話していました。



そうなんですか???




律法を守ろうとする人たちが

イエスについて反対してるから

てっきり、イエスは

律法とは別のことを伝えていたのかと・・

 

 

 

新約聖書のヨハネによる福音書では

イエスを殺そうとたくらんでいたユダヤ人たちに

イエスご自身がこう語ってます。

 


 



新約聖書

〔ヨハネによる福音書5章45節-47節〕


わたしがあなたがたのことを

父に訴えると、考えてはいけない。

あなたがたを訴える者は、

あなたがたが頼みとしている

モーセその人である。 

もし、あなたがたが

モーセを信じたならば、

わたしをも信じたであろう。

モーセは、わたしについて書いたのである。 

しかし、

モーセの書いたものを信じないならば、

どうしてわたしの言葉を信じるだろうか」。 



 

 

 

父というのは神様をさしています。



モーセが信じた神様と

イエスが信じた神様は同じ神様です。



イエスが神様にあなたがたを訴えるのではなく

あなたがたを訴えるのは

 

あなたがたが頼りとしているモーセだと。



モーセはイエスについて書いたのだから

モーセの書いたものを信じないなら

どうしてわたし(イエス)の言葉を信じるだろうか。

と話していました。



ところで、イエスが言ってた

「モーセの書いたもの」ってなに???




大きく言えば律法のことかなと思いましたが

モーセがイエスについて語っているであろう場面が

旧約聖書に残っています。


 



旧約聖書

〔申命記18章15-18節〕


あなたの神、主はあなたのうちから、

あなたの同胞のうちから、

わたしのようなひとりの預言者を

あなたのために起されるであろう。

あなたがたは

彼に聞き従わなければならない。 

これはあなたが集会の日にホレブで

あなたの神、主に求めたことである。

すなわちあなたは

『わたしが死ぬことのないように

わたしの神、主の声を

二度とわたしに聞かせないでください。

またこの大いなる火を

二度と見させないでください』と言った。

主はわたしに言われた、

『彼らが言ったことは正しい。 

わたしは彼らの同胞のうちから、

おまえのようなひとりの預言者を

彼らのために起して、

わたしの言葉をその口に授けよう。

彼はわたしが命じることを、

ことごとく彼らに告げるであろう。 」



 

 

 

 

この話の背景ですが

モーセとイスラエルの民がエジプトを脱出した後

モーセがホレブの山で神様から律法をもらう時に

イスラエルの民たちが

「自分たちが死ぬことがないよう

自分たちが神様を見たり

 

神様の声を聞いたりしないようにしてください」

とモーセにお願いしていて

そのあと神様がモーセに伝えました。

 

 



『彼らが言ったことは正しい。 

わたしは彼らの同胞のうちから、

おまえのようなひとりの預言者を

彼らのために起して、

わたしの言葉をその口に授けよう。

彼はわたしが命じることを、

ことごとく彼らに告げるであろう。

 

 

 

ん?



ここで神様がおっしゃっていた「預言者」とは

イエス・キリストのことだったんですか!!




モーセとイエスの間には

軽く千年を越す歴史が流れてます。



そんなにあとの時代のことを

 

神様がおっしゃっていたとはびっくりです。




実は、イエスが律法を本当に成就したのか

過去の預言者の言葉をどう成就したのかは

旧約聖書と新約聖書の様々な箇所に記されてますが

 

ほとんど気付かず読み流してました。

 




様々な箇所に散らばった無数の点と点が

一つの線で繋がるまでは

私にとっては

ちんぷんかんぷんなお話だったのでした。

 




まあ、地球は広いからね。

あ、地球の話じゃなくて

 

聖書の話か。

 

いや、時間の話でもあるのかな・・・

 

 

 

 

 

古代イスラエルで

 

王が誕生したときの話です。

 

 

 

王様誕生は喜ばしいことだと思ってましたが

 

これまた背景に驚きの経緯がありました。

 

 

 

 

そもそも王様って

 

いつ頃から立てられるようになったの?

 

 

 

イスラエルの民が

 

エジプトの奴隷生活から抜け出した時は

 

モーセが民を率いていて

 

この時まだ王様はいません。

 

 

 

モーセの後継者ヨシュアが民を引き連れて

 

カナンの地へ入り

 

定住するようになった頃も

 

王様はいません。

 

 

 

王様が立てられるようになったのは

 

紀元前11世紀頃です。

 

 

 

この頃、イスラエルでは

 

預言者と言われる、神様の言葉を預かる人が

 

神様からの言葉を伝えながら

 

イスラエルの人々に

 

神様と共に生きる方向性を伝えていました。

 

ちなみに、モーセもヨシュアも預言者でした。

 

 

 

そんな中で

 

イスラエルの民たちが、当時の預言者サムエルに

「われわれに王を立ててください」

とお願いして

後にサウルという王様が即位しました。

 

 

 

彼がイスラエルで初めての王様です。

 


民が「王を立ててください」とお願いしたとき

神様はこのようにおっしゃいました。

 

 


 

旧約聖書


〔サムエル記上8章7-9節〕


主はサムエルに言われた、

「民が、すべてあなたに言う所の声に

 

聞き従いなさい。

彼らが捨てるのは

 

あなたではなく、

 

わたしを捨てて、

彼らの上に

 

わたしが王であることを

 

認めないのである。

彼らは、わたしがエジプトから

 

連れ上った日から、

きょうまで、わたしを捨てて

 

ほかの神々に仕え、

 

さまざまの事をわたしにしたように、

あなたにもしているのである。

今その声に聞き従いなさい。

ただし、深く彼らを戒めて、

彼らを治める王のならわしを

彼らに示さなければならない」。

 




あれれ!?

 

何やら雲行きが怪しい発言ですが・・・

 

 

 

民が捨てるのは

 

預言者サムエルじゃなくて神様ってどういうこと?

 

 

民は、民の上に神様がいることを認めてなくて

 

エジプトから出てきて今まで

 

神様を捨てて、他の神々に仕え

 

様々なことを預言者サムエルにしたように

 

神様にもしてるってどういうこと!?

 

 

 

 

 

聖書には、イスラエルの民が

 

神様以外の別の神々を拝んでいた記述が

 

時折載ってます。

 

 

モーセの時代に人々は神様を信じますと

 

神様に約束しましたが、

 

イスラエルの民の中には

 

エジプトの地で信仰していた神々や

 

近隣諸国の神々を信仰していた人々がいたようです。

 

 

 

 

モーセを通して数々の奇跡やしるしを見て

 

神様を信じようとその時は思ったけど

 

それまで自分たちが慣れ親しんだ信仰も

 

惜しくて捨てられなかったということでしょうか。

 

 

 

このような人々の姿は

 

神様の目にどのように映っていたんでしょう・・・




ところで神様は

王を立てるということが

 

どういうことなのか理解させなさいと

サムエル預言者に伝えました。

 

 

 




旧約聖書

〔サムエル記上8章10-22節〕


サムエルは王を立てることを求める民に

主の言葉をことごとく告げて、 言った、

「あなたがたを治める王のならわしは

 

次のとおりである

彼はあなたがたのむすこを取って、

 

戦車隊に入れ、騎兵とし、

 

自分の戦車の前に走らせるであろう。

彼はまたそれを千人の長、

 

五十人の長に任じ、

またその地を耕させ、

 

その作物を刈らせ、

またその武器と

 

戦車の装備を造らせるであろう。


また、あなたがたの娘を取って、

 

香をつくる者とし、料理をする者とし、

 

パンを焼く者とするであろう。

また、あなたがたの畑とぶどう畑と

オリブ畑の最も良い物を取って、

 

その家来に与え、

あなたがたの穀物と、ぶどう畑の、

 

十分の一を取って、

 

その役人と家来に与え、

また、あなたがたの男女の奴隷および、

あなたがたの最も良い牛とろばを取って、

自分のために働かせ、

また、あなたがたの羊の十分の一を取り、

あなたがたは、その奴隷となるであろう。

そしてその日

 

あなたがたは自分のために

選んだ王のゆえに呼ばわるであろう。

しかし主はその日にあなたがたに

 

答えられないであろう」。

ところが民はサムエルの声に

 

聞き従うことを拒んで言った、

「いいえ、われわれを治める

 

王がなければならない。

われわれも他の国々のようになり、

王がわれわれをさばき、

 

われわれを率いて、

われわれの戦いにたたかうのである」。

サムエルは民の言葉をことごとく聞いて、

それを主の耳に告げた。

主はサムエルに言われた、

「彼らの声に聞き従い、

 

彼らのために王を立てよ」。

サムエルはイスラエルの人々に言った、

「あなたがたは、

 

めいめいその町に帰りなさい」。

 

 

 

 

うん?

 

ちょっとよく意味がわからなかったので

 

もう一度確認します。

 

 



神様は、王を立てるなら

 

このことを知りなさいと

 

おっしゃいました。

 



人間の王を立てて軍隊を作り

王のために仕える人々や役人も立てるから

そのための民の協力や負担が必要で


徴収される物や人も増えるよと。



確かにそうですね・・・




イスラエルの民は、

 

それでも他の国々のように

自分達を治める王がほしいとお願いしました。



それで、最終的に

 

神様は承諾されるのです。




よくよく読むと

ものすごいやりとりをしてました。



王様が立てられる前に

 

神様と人々との間で

 

こんなやりとりをしていたなんて。

 

 

 

何事も

 

表面を知るだけではわからない

 

真相があるものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

名前の意味を聞いてびっくりした話です。

 

 

 

聖書の人物の名前はそれぞれ意味があります。

 

産まれる時の状況から

 

その名がついた人物も多く

 

聖書の中で、何かしらの状況説明の後に

 

それで、その名を〇〇と名付けた。

 

と書いてある箇所は

 

その状況の意味が含まれた名前になってます。

 

 

 

 

今日は新約聖書の主人公、

 

イエスのお名前をご紹介。

 

 

 

 

 

新約聖書

 

〔マタイによる福音書1章21節〕

 

彼女は男の子を産むであろう。

 

その名をイエスと名づけなさい。

 

彼は、おのれの民を

 

そのもろもろの罪から救う者となるからである」。

 

 

 
この状況の通り、

 

イエスという名前は

 

「神は救い」を意味します。

 

 

 

 

 

個人のお名前に

 

 

「神は救い」とは

 

 

 

なんとダイレクトなメッセージですか!

 

 

 

 

そして、さらにびっくりだったのが

 

イエスという名前は特別な名前じゃなくて

 

当時のイスラエルでは

 

一般的な男性名だったということ。

 

 

 

 

つまり、その当時

 

「神は救い」さんが大勢いたんですか!!

 

 

 

この名前が一般的になるってすごいです。

 

 

 

ここまでメッセージ性のあるお名前は

 

日本では珍しいのでは。

 

 

 

もし、そういう名前の人がいたら

 

思わず振りむいちゃうかもしれません。

 

 

 

 

これはもう

 

忘れられないお名前になりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

これは神様と人間の

 

「信頼関係」のお話です。

 

 

 

プライベートでも仕事でも

 

切っても切り離せないのが人間関係。

 



人間関係を円滑に保つために

 

お互いへの「信頼」が大切なように

神様と人間も

お互いの信頼関係が大切です。



1対1の 神様 対 個人 の関係もそうですが

旧約聖書では

国を治める王が近隣諸国との外交にあたるときも

神様を信頼することを望まれていました。



あなたを守るのは

 

他でもない神様だから

 

軍備や強い人

 

強い国に頼るのではなく

 

まず、神様を頼りなさい

 

という趣旨のことが

 

聖書にたくさん書かれています。



旧約聖書の時代、

 

政治と宗教は密接に関わっていました。



国の一大事を任された王としては

国が窮地に陥っているときほど

自分より強い国や

 

他国に負けない軍備に

 

頼りたくなりそうな気もしますが

そういうときこそ、

 

誰かに頼るまえに

神様を呼ぶことを

神様は願われました。




これは、自分だけで、また

自分の国だけで踏ん張りなさい

という意味ではなく

最終的には誰か、

 

またはどこかの国に助けてもらう結果になるとしても

自分で判断する前に

まず神様に助けを求めてほしい

ということのようです。




神様に助けを求めた時


誰かを通して助けてくださるのか

何かを通して助けてくださるのか

環境を変えてくださるのか

自分を超えた能力を発揮させてくださるのか

それは、神様が判断なさることなので

人間の側にはわからないことです。



わからないからこそ

不安になるから

自分が良いと思う人や物に

頼りたくなっちゃうんですけどね・・・




個人的には

神様に頼る前に

自分でやってしまったことは

多すぎて数えられません!





「信頼」というステップは

ファーストステップのように思えるけど

 

その前にいろんなステップを踏んだあとの

結構大きなステップなのかもしれませんね。





 

 

 

 

 

 

聖書の律法を読んでいて

 

笑ってしまった話です。

 

 

 

律法と聞くと

 

何やら小難しいことが書いてあるイメージですが

 

内容は意外にシンプルで

 

日常生活に関する事柄が記されています。

 

 

 

旧約聖書

 

〔出エジプト記23章4~5節〕

 

 

もし、あなたが敵の牛または、

 

ろばの迷っているのに会う時は、

 

必ずこれを彼の所に連れて行って、

 

帰さなければならない。

 

 もしあなたを憎む者のろばが、

 

その荷物の下に倒れ伏しているのを見る時は、

 

これを見捨てて置かないように気をつけ、

 

必ずその人に手を貸して、

 

これを起さなければならない。

 

 

 

 

 

そうですよね!!

 

 

 

 

たとえ相手と喧嘩中だっとしても

 

敵の牛とロバには罪がないですもん。

 

 

 

敵の牛かロバだとしても

 

迷ってたら飼い主のところに帰してあげなさい。

 

自分を憎む人のロバだとしても

 

荷物の下に倒れてたら

 

あなたが手を貸して起こしてあげなさい。

 

って、人間を諭している神様を想像したら

 

なんだかほっこりしてしまいました。

 

 

 

まあ、嫌いな人のこととなるとなかなかね・・・

 

神様は人間の心理を良くご存じで。

 

 

 

 

それにしても、

 

律法が作られた頃は

 

こういう問題が結構あったんでしょうか・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

有名なパンのおはなしをきいて

 

その背景にびっくりした話です。



 



新約聖書


〔マタイによる福音書4章4-5節〕


 

すると試みる者がきて言った、

 

「もしあなたが神の子であるなら、

 

これらの石がパンになるように

 

命じてごらんなさい」。


イエスは答えて言われた、


「『人はパンだけで生きるものではなく、


神の口から出る一つ一つの言で

 

生きるものである』


と書いてある」。


 

 




イエスが悪魔に試みられるため、

 

御霊により荒野に導かれて

 

40日40夜断食して空腹になったときの話です。





ここで注目して頂きたいのは

 

一番最後の

「書いてある」ってところです。





悪魔に試みられたときに

 

どうやら

自分の言葉で答えたのでく

 

どこかの言葉を引用したようです。





じゃあ、一体どこに書いてあるの?



 




旧約聖書

〔申命記3章8節〕




「それで主はあなたを苦しめ、

あなたを飢えさせ、

あなたも知らず、

あなたの先祖たちも知らなかった

マナをもって、


あなたを養われた。

人はパンだけでは生きず、

人は主の口から出る

すべてのことばによって生きることを


あなたに知らせるためであった。」


 




 

 


これはモーセが語った言葉です。

「主」とは神様をさしています。



当時、モーセに率いられ

エジプトを脱出した
イスラエルの民たちは

40年荒野をさまよい

見知らぬ土地で食料に苦労しました。




その際、神様が「マナ」を降らせて


民を養ってくださったのですが


それは


 人はパンだけでは生きず、

人は主の口から出る

すべてのことばによって生きることを


あなたに知らせるため』


だったと書いてあります。





つまり、

神様のことばの大切さを

身をもって体験するために


様々な苦労をしてたということですか!



そんな背景があったとはびっくりでした。




石をパンにしてみろという

悪魔のむちゃぶりにも驚いたけど

これは、モーセの時代に

神様が荒野で「マナ」を降らせたことを

暗に言ってたということでしょうか・・・



それに対して、どうしてマナを降らせたのか

神様の心について答えたイエス。




うーん、これは心理戦だ!!!




あ、ちがった。




真理戦か。