ー あたたかいこたつ ー
家の家族は五人
「五角のこたつならいいなあ」
と、おねえさん
一番あとからはいる かあちゃんは
私と同 じ所
私はやっぱり 四角でもいい
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天気図の曲線が美しく描かれるとき、この国にきびしい寒波が来る。
明けて元旦、大雪の新年をお迎えの方も多いことだろう。
鉛色の空の下、帰省の道中に難渋された人は、古里の味わいもひとしおだろうと拝察する
▼雪屋根の下の団欒(だんらん)を思う。
福島県で続く児童詩誌『青い窓』に小学5年の女の子の詩が載っていた。
(あたたかいこたつ/家の家族は五人/「五角のこたつならいいなあ」/と、おねえさん/一番あとからはいる/かあちゃんは/ 私と同じ所/私はやっぱり/四角でもいい〉
▼母さんと肩を寄せ、並んで座る幸せと安心がほのぼのと伝わる。ずいぶん前に書かれたそうだ。
詩誌を主宰していた故佐藤浩さんは
この詩に触発されて、自らもこんな一行の詩をつくった。
〈きゅうくつな幸せを忘れていました〉
▼その「窮屈」を脱ぎ捨ててきたひずみが、この社会を苛(さいな)んでいようか。家族ならぬ「孤族」という小紙連載が、いたたまれぬ人間砂漠を報じている。「孤」をのさばらせず、人肌の体温を世に取り戻す意思を、互いに持ち合いたいものだ
▼人間通だった心理学者の故河合隼雄さんによれば、自立とは独りで生きることではない。まして孤立ではない。自立している人とは、適切な依存ができて、そのことをよく自覚している人なのだという
▼「こたつ」の詩に例えるなら、5人用に五角形のこたつを設(しつら)えて、互いが見えぬよう仕切りまで立ててきた近年ではなかったか。
便利と快適は幸せと同義ではあるまい。
「きゅうくつな幸せ」を、新春の空に思ってみる。
朝日新聞社 2010.1.1
http://www.asahi.com/paper/column.html
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正月だから 買ってみた朝日新聞。
最近はとんと読まなくなった天声人語を読んでみたら、上の内容だった。
『わたしはやっぱり/四角でもいい』
のところでジーンときた。
個人的には、「四角がいい」 と書いてほしかったかなあ。
しかし 何度読んでもジンとくる。
無縁社会ニッポンと言われる中、家族の絆にスポットを当てたところがいい。
年頭にふさわしいコラムだと思いました。
天声人語といえば、
僕の中では 約30年前の6月10日のコラムがいまだに脳裏にあります。
たしか、こんな話。
深夜突然、女の子からかかってきた一本の電話。
誕生日の今日に自ら命を絶つと決めていたという。
その前に誰でもいいから話をしたかったと言った。
男は時計をみる。「今日」はまだ1時間残っている。
男はなぜどうしてと聞いた。彼女「そんなことどうだっていいじゃない。」
次第に声がとがってくる。
「じゃあ」と切ろうとする女の子。
あわてて男は言葉を探し、走れメロスの話をしはじめる。
親友のために約束の時間を守るために日夜走り続けた話を。
彼女、黙って聞いている。「それでどうなったの?」
結末を話した後、男、時計をみる。まだ1分ある。もうネタは尽きた…
「誕生日にこだわってたみたいだけど、もう午前零時を過ぎたよ。」
彼女「まだ1分あるよ。」
「おじさんの時計は、やっと月賦で買った高級品だからまちがいないよ。」
彼女は初めてくすっと笑い、もう1年考えてみると言い、電話を切った。
とそのとき、時計の針が零時を回った…
時の記念日。
てな話。
このコラムのコラムでT先生がこんなコメントを書いてたっけ。
「とっさについた1分間のウソ。
彼女はこの1年間で、砂が水を吸い込むように成長していくだろう。
1年経ったら、どうしてこんなことで思い悩んでいたのかと思うかもしれない。
思春期の傷つきやすい心を癒すのに 時が必要なときもある。」
時の重さ、大切さというものを感じ、感銘を受けたものです。
あれから、字が大きくなり文字数が減ったせいか、天声人語がつまんなくなりしだいに読まなくなっていましたが、久しぶりに読んでみて、なかなかいいじゃん、と思いました。
そういえば、昔は天声人語を読むために朝日新聞を取るという時代があったっけなあ。
殺伐としたニュースが多い中で、ときどきはこんなコラムで癒してほしいですね。
※30年前の天声人語と、「コラムのコラム」は、かなり違っているかもしれません。
なにしろ30年前の記憶なので、違っていたらご容赦ください。
もし知っている人(ってたぶん同級生ぐらいでしょうが、)がいましたら、正確な内容を教えてもらえたら幸いです。