体幹トレーニングの原本と体幹固定解放運動! | 全くのゼロから整体師・トレーナー・セラピストとして起業してたった3ヶ月で月収100万を得る方法

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立甲 健一郎です。



体幹トレーニングが、

スポーツを中心に隆盛している。



それでスポーツの

パフォーマンスが上がったり、



より健康的になり、

生きるのが楽しく豊かになるのであれば、

それは素晴らしいことだ。



しかし、もし、

体幹トレーニングによって



思うようにパフォーマンスが

上がらず、記録も伸びていなかったり、



痛みや不調が出て、

ある種の生き苦しさを

感じているのであれば、



考え直したほうがいい。



私は体幹トレーニングを、

体幹トレーニングが流行る

はるか以前から行っていた。



いま、体幹トレーニングという名が

知れ渡り、「体幹」の重要性が

認知されてきていることは、喜ばしいことだ。



しかし、そろそろ、

その体幹トレーニングの中身について、

考え直す時期に来ている。



広く、深く、体幹トレーニング

というものに関わってきた私には、



現在流行りの体幹トレーニングは、

大きく2つの“系”に大別できることが

見て取れる。



それは、



①体幹ガチトレ

②体幹ユルトレ



の2つである。



専門的には、



①体幹固定的トレーニング

②体幹解放的トレーニング



と概念化している。



体幹をガチッと固定させるか、

体幹をユルッと解放させるか、



の違いである。



言葉にしてみれば簡単だが、

体幹を固めるか、解放させるかは、



天地の差だ。



同じ体幹トレーニングでも、



体幹をガチッと固めてしまっては、

肝心な体幹が箱のようになって動かなくなる。



体幹は、

幼児のカラダのように、

ユルッと動いて解放的であるのが

本来の姿である。



幼児のカラダは、

ヘビやウナギのように、

捕まえてもニュルッニョロッと

逃げ回って捕らえにくい。



カラダが液体的で、

カラダの中心そのものが

縦横無尽に動き回るからだ。



体幹が1つの固まりではなく、

例えば胸部と腹部、

あるいは右半身と左半身が

別々の生き物のように

独立して動くから、



押さえるべき中心が

いっぱいあるのだ。



人間は、中心が1つであれば、

簡単に捕らえることができる。



目の前の手のひらサイズほどの

石ころは、

簡単に掴める。



中心が1つだからだ。



しかし、



これがビニール袋に入った

液体となれば、

トタンに掴みにくくなる。



中心が定まらないからだ。

中心がズレると言っていい。



これが川の水であれば、

もはや水に中心が存在しないので、

つかみ取ることはできない。



こんな水のようなカラダになれば、

相撲や柔道、レスリングなど、

組み合い系・揉み合い系の

武道・格闘技には特に有効であることが

わかるだろう。



本来、カラダの中心は

1つではない。



カラダは多中心構造体だ。



カラダの構成要素の

約7割が水であるように、



カラダは元来、

液体的だからだ。



筋肉も内臓も血液も何もかも、

カラダの組織でガチッと

固定されているものはない。



すべてが流動的に舞い踊っている。



硬いと思われている骨でさえも、

その中には血液を有しており、

破骨細胞と骨芽細胞が

絶えず分裂を繰り返している。



だから本来、

カラダに中心は存在しない。



逆に言えば、

カラダのすべてが中心である。



そこまで細かく考えなくとも、

例えば体幹には肋骨と骨盤がある。



ということは、この場合、

体幹に中心は2つ

存在することになる。



その2つの中心を、

ええい!1つにまとめてしまえ!

と、強引に体幹をガッチリ!と固定してしまう

発想が、体幹固定的トレーニングである。



中心が1つのものは、

倒れやすい。



多中心は、倒れにくい。



例えば、日本の東寺や法隆寺、

興福寺などの五重塔は、



「柔構造建築」と言って、

地震や強風が吹いても、

ユラユラと揺れ動いて

揺れを吸収してしまう。

photo:01

興福寺五重塔



これは、例えば2階と3階が

ズレ合うことを意味し、

それは、

2階も3階も、それぞれが



一個の独立した存在として存在し、

2階にも3階にも中心が存在する、

多中心構造体であることを意味する。



だから、天変地異の多い日本国において、

五重塔は倒れることがない。



これは自然災害の多い

日本ならではの発想であり、



おそらく古来日本人は、

決してガチッ!と止まることのない、

生々流転とした大自然に倣って、



あるいは、



“自”然から“分”かれた、

“自”然の一部“分”である

自分自身のカラダに倣って、



天変地異に抗うことなく、

調和しようと考えたに違いない。



photo:02


この五重塔の柔構造建築が、


現在の耐震建築の教科書であることは、


言わずもがなである。


あべのハルカスの超高層ビルだって、


柔構造建築なのだ。


これに対して、


西洋式のお城などは、


「剛構造建築」といって、


地震や強風が引き荒れても


揺れ動くことがない。


ガッチリと固定されている。


こういう剛構造建築は、


耐震性に脆く、倒れやすい。


これを高齢者の転倒予防に


当てはめて考えると、


柔構造のカラダと

剛構造のカラダは、


どちらが倒れにくいかは、


言うまでもない。


もちろん、


人間のカラダと建築物は


違うが、決して別物と考えることはできない。


柔構造体は、多中心構造体であり、

体幹解放的身体である。


剛構造体は、一中心構造体であり、

体幹固定的身体である。


体幹ガチトレは、


中心が1つの


ブロンズ像のような剛体をつくり、


転倒のリスクを高める危険性がある


ことを申し上げておく。




今主流の体幹トレーニングは、

そのほとんどが

この体幹ガチトレである。

つまり、

体幹外側の筋肉(アウターマッスル)

を固めてカラダの位置を定める方法だ。

これは、

もはや体幹トレーニング

とは呼べない。

普通の筋トレそのものである。



バランスボールなど、


不安定な足場をつくって、


その上で体幹を保持(固定)する


トレーニングも主流だが、


これも同じく、特に長期的な視座に立てば、


体幹を固定するクセばかりが


身についてしまう。


サッカー日本代表選手が、


その傾向に染まっていることは、


勘の鋭い読者には見て取れることだろう。


バランスボールを使うのであれば、


その上で“トレーニング”するのではなく、


バランスボールと“戯れる”ぐらいでちょうどいい。


バランスボール上で体幹を固定するのではなく、


思いっきり体幹を解放し、


転げ落ち、転げ回って笑い転げている


ほうが、よっぽどトレーニングになる。


なぜならば、


サッカーでも何でも、


その場にカラダを固定する


スポーツはないからだ。


だから、固定する練習ばかりすると、


その場に居着いて、


身動きがとれないカラダになってしまう。


これは武術の世界では死を意味する。


いかに多様に動けるか、である。


だから、ボールの上で固めるのではなく、


ボールから転げ落ちる遊びをした方が、


動くことにおいてはトレーニングになるのだ。


幼い子供であれば、


どうやってバランスボールで「遊ぶ」か、


カラダで考えてみてほしい。


もっとも、子どもたちと一緒に


バランスボールで遊んでしまうのが一番いい。



厳しい世界であるスポーツ界に、


「遊ぶ」という発想は


似つかわしくないのかもしれない。


しかし、もしあなたがそう思っているのなら、


それはもはや古い考えだ。


今や、トップスポーツの世界では、


トレーニングに「あそび」の要素を


取り入れている。


侍JAPANはより固定的だが、


なでしこJAPANはより解放的である。


なでしこJAPANは、


佐々木監督や選手たちが


ジョークやダジャレを言い合ったりと、


遊び心が身に沁みついている。


厳しいからこそ、


そこに遊びの要素が必要だ。


スポーツは、


もとは遊びから生まれたものであり、


それは今も変わりはない。


仕事(プロ)としてスポーツをやっているなら、


スポーツは遊びとは捉えにくいかもしれないが、


しかしスポーツの源流は遊びである。


一流選手ほど、試合や勝負を遊んでいる。


熾烈な争いの中で、遊べる選手ほど、


強いのだ。


努力は夢中には勝てないし、


夢中は熱狂には勝てない。


遊び心なく努力している選手は


遊びに夢中になっている選手に勝てないし、


遊びに熱狂している選手は最強である。


普段の不断のトレーニングも、


いかに、「遊ぶ」という発想を育めるか。


トレーニングを、遊びとすることができるか、


そこが勝負の分かれ目だが、


体幹をガチッ!と固定していては、


決して遊ぶことはできない。


体幹をユルッと解放できる選手だけが、


トレーニングを、スポーツを、身体を、


遊ぶことができるのだ。



『種の起原』を著したチャールズ・ダーウィンは、


強いものが生き残るのではなく、

変化に適応できるものが生き残る



と言った。


いかに生々流転とした変化に


対応できるかが、


難局に打ち勝つヒケツなのだと、


ダーウィン(打勝)だけに、


それが「打ウィン(勝つ)」ヒケツだと言った。笑


体幹固定的身体では、


変化に即応できない。


つねに局面が変化するスポーツにおいても、


体幹を固定していては、


変化に対応しきれない。


万物はつねに流転しているのだから、


カラダもつねに流転している必要がある。



私は、鴨長明さんの『方丈記』が好きだ。



「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。


よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、


久しくとどまりたるためしなし。


世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。」


冒頭のこの言葉がたまらなく好きだ。


この世の在り様を見事に言い表しているし、


そもそものカラダの在り様(体幹解放的身体)


をも言い表している。


ここに、私たちが健康に生きる極意がある。


この世に、常時その場に


固定されているものはない。


生きている人間のカラダはなおのこと、


亡くなったカラダでさえも、変化していく。



この鴨長明さんの『方丈記』は、


体幹トレーニングの原本であり、


生きる教科書と言えると私は思う。



どんな体幹トレーニング理論よりも、


『方丈記』のほうがわかりやすい。



今日の話は、


スポーツをやっていない私には関係ない、


ことはない。


体幹トレーニングをしていない私には関係ない、


ことでもない。


人の、カラダの、根本にかかわる話だ。


体幹が固定されていては、


思考も心も固定されがちになる。


あなたが、一番あなたらしい人生を送るのに、


体幹を解放してほしいのだ。


「体幹固定解放宣言」をし、


「体幹固定解放運動」を推進することが、


これからの日本に一番必要なことだと、


整体師・トレーナーとして思う今日この頃である。


では、いかにして、


体幹固定解放運動を推進していくか?


その答えは、『進史 体耕記』という


メルマガ(ニュースレター)で発信していきます、かぁ~?笑



最後までお読み頂き、心から感謝します。

ありがとうございます。


立甲健一郎