こんにちは。
聖羅です。
今回は、誰にでも訪れる「死」について
死んだことないからどうなるかなんてわからない・・
死に際はさぞ苦しいのだろうか・・等、わからない事が
「死」への不安・恐怖だと思うんですね。。
「死」への恐怖がなくなれば、穏やかにその時を
待てるのでないかと思うんです。
数年前に大分の叔母が白血病で他界しました。
その時感じた事は、延命措置の間はとても辛そうで
目を塞ぎたくなる状態でしたが、しんどくなるとモルヒネを
何度も打ちそのおかげで意識が朦朧となり
所謂寝ている間に息をひきとるのが「死」なんだと
知りました。
病院での死であれば、そのおかげで、死に際って「うううう~~」と
苦しんでではなくその時には既にモルヒネで意識がなくなっているんだと。
でも、それまでの間、延命措置によりまさに死ぬほど苦しんでいるんです。
私がファンである一日二食健康法の松井二郎さんがメルマガで
記載してくださいました。
『大往生したけりゃ医療とかかわるな』
という本をまとめてくれたメルマガです。
死に際は何らの医療措置も行わなければ、肉体的には苦痛はない。
(以下は引用)
「『自然死』は、いわゆる "餓死" ですが、その実体は次のようなものです。
『飢餓』……脳内にモルヒネ様物質が分泌される
『脱水』……意識レベルが下がる
『酸欠状態』……脳内にモルヒネ様物質が分泌される
『炭酸ガス貯溜』……麻酔作用あり
夢うつつの気持ちのいい、
穏やかな状態になるということです。
私たちの先祖は、みんなこうして無事に
死んでいったのです。
ところが、ここ30~40年、
死にかけるとすぐに病院へ行くようになるなど、
様相が一変しました。
病院は、できるだけのことをして延命を図るのが使命です。
例えば、食べられなくなれば鼻から管を入れたり、
胃瘻(いろう)(お腹に穴を開けて、そこからチューブを通じて水分、
栄養を補給する手技)によって栄養を与えたり、
脱水なら点滴注射で水分補給を、
貧血があれば輸血を、小便が出なければ利尿剤を、
血圧が下がれば昇圧剤をというようなことです。
これらは、せっかく自然死が用意してくれている、
ぼんやりとして不安も恐ろしさも寂しさも感じない
幸せムードの中で死んでいける過程を、ぶち壊しているのです。
私たちは枯れかけている植物に肥料をやるでしょうか。
万一、肥料を与えたとしても吸収しませんから、植物に害はありません。
ところが、人間の場合は違います。
体内に "肥料" を別ルートから無理やり突っ込むわけです。
いかに、死にゆく人間に苦痛と負担を強いているか、
想像に難くないでしょう」
~~
介護でも食欲がなく食べたくないのに、栄養を身体に入れるのは拷問だと。
動物は死を感じると一切食べなくなるというのが
自然な死なんだと知りました。
人それぞれ、いろいろな考え方があるかと思いますが、
私はこれを知って「死」に対して少し理解したと思えました。
なのである程度の年齢になったのであれば寿命なんだと覚悟して
自然死を望みますね。
肉体的には、夢うつつで気持ちの良い状態でこの世を去れるわけです。
そうすると「死」への恐怖がなくなります。
そして、断捨離をして、たとえば今自分が居なくなったとしても
残された人が困らないように終活をすることで更にいずれ迎えるだろう
「死」に対して受け入れ待つことができるのかもしれないですね。
誤解されないように申し上げますが、以上の死に対する話は
人として寿命となった時の話です。
それもその人にとって何歳が寿命なのかもそれぞれですよね。
わからない。
けど・・きっとその時は・・・・わかるような気がする。
ps:2021年に一度投稿した記事です。