人のご縁と昇華 | 秋月せいらオフィシャルブログ「〜徒然なるままに〜」Powered by Ameba

皆様こんにちは。

年が明けて10日が経ちました。

今年もどうぞ宜しくお付き合い下さいませ。

皆様は年末年始リフレッシュなさったでしょうか?


私は知人の家でご馳走持ち寄り新年パーティーをしながら、知人の娘さんの子守りを仰せつかり?ました。

日頃申し上げているように、私は子供の泣き声の周波数がどうにも耳に合わない上に、母性たるものを母親のお腹の中に忘れてきたと公言するほどに母性が欠如しているので、子供の相手というのは滅法苦手です。

しかし相性とは不思議なもので、この知人の娘さんである2歳女児は何故か上手く付き合えます。泣こうが喚こうが特になんとも思わず、せっせとおもちゃを貢ぎ体力の限界まで奉仕させられても次何する?なんて具合です。人と人の相性やご縁というのはつくづく不思議なものです。(ちなみにこの2歳児は私が名付け親)

一年後には更にお喋り上手になるんだろうなぁと今から楽しみでなりません。



さて前置きが長くなりましたが、本日は『人のご縁と昇華』そんなお題でお話したいと思います。


皆様にも恐らくひょんなことから大きなご縁を紡ぐことや、どこからともなく現れたご縁に救われるといったことがあるのではないかと思います。それがどんな関係であったとしても天の導きを感じるような状況とはままあるものです。


人は前世からの結び付きや天からの導き、または真っ新なご縁をこの世で繋ぎゆくものです。いつも申し上げているように、私たちが相互依存関係で成り立っていることを思えば当然のことなのですが、それでも実際にそういったことに遭遇すると運命的なものを感じてしまいますね。


こういったご縁は良縁も悪縁もあるわけですが、ひょんなことから今あるご縁もいずれ『卒業』の時がくるかもしれません。

互いの環境が変わったり魂のステージが変わったり、はたまたそれが生死によってかもしれません。

そんな時にそのご縁に執着する人、相手の足を引っ張ってでも同じ場所に留まろうとする人というのは意外と少なくありません。


しかしながら、人のご縁が結ばれたのもご縁であるなら、そこからの卒業(昇華)も此れまたご縁です。

そこに執着するのではなく、互いの卒業は新たなステージの始まりであること、そしてそれは元来喜ばしいことであるべきことを心に留めて頂きたいなと思うことです。


人から受けた恩は一生と思っていらっしゃる方も勿論沢山いらっしゃるでしょう。それは真理です。しかしだからといって一生同じステージに居続けることや、相手に遠慮して未来へ進みゆくスピードを緩めることは違います。恩を感じる相手がいつも幸福であるように願い続けることこそが大切なのであり、それぞれが心の自立を目指して魂を磨く過程にいることを思えば、ステージの変化と共にご縁の卒業であったり、遠くから見守るだけの糸になったりして当然なのです。


特に異性問題やご夫婦の問題をお伺いする際に情が邪魔して離れられませんと仰る方、本当に沢山いらっしゃいますが、その『情』というのは誰の為のものでしょう?ご自身が必要とされていることに自己満足する悦を情と勘違いしていたり、八方美人のような感じで嫌われたくないと思っていたり、はたまた経済的なことであったりそんな下心は本当にないでしょうか?

そんな時は情がという『言い訳』を盾に変化を恐れるご自身が何処かに隠れていないかか、感情論抜きで一度考えて頂きたいなと思うことです。

昇華すべきご縁を繋ぎ止めることで人は人の成長を止めることもあるのだと、いつか人間関係に強い執着心を抱えて生きる方の腑に落ちる時がくると嬉しいです。


人が人と繋がるご縁には必ずそれぞれのキャパシティがあります。

昇華させるべきご縁が昇華された時、今の皆様に本当に必要なご縁が改めて紡がれていくということ、そしてそれはまだ見ぬ未来の皆様を輝かせる為の新しい世界の人々との出会いであると信じて恐れなく未来へ邁進して頂きたいなと思うことです。


年末に面倒な人間関係に辟易した私への自戒を込めた今日の一筆でした。


年が変わってもまだ運気的な移り変わりの実感は2月頭ごろまでお預けの皆様方も多いかと思いますが、折角の暖冬なのでアグレッシブにスタートダッシュを決めてキラキラ輝く一年を創っていかれますようにお祈り致します。



秋月せいら




↓到津の森動物園にいたマンドリル。なんだかこれを見ていると色んなことがどうでも良くなるのは私だけ?