正義の在り方。 | 秋月せいらオフィシャルブログ「〜徒然なるままに〜」Powered by Ameba
こんにちは。寒い毎日が続きますが如何お過ごしでしょうか。
一時期の寒さに比べれば大分緩んだはずの冷え込みですが、寒いものは寒い!ですね。ちらほら見かける梅の花が少し心を温かくしてくれるような気がします。

さて今日は”正義の在り方”というお題でお話をさせて頂きます。
インターネットの普及により匿名での様々なコメントを目にする機会も当たり前のようになりました。正しいことを一心に非情な言葉で主張するようなコメントも頻繁に目にします。

そもそも正義とはなんでしょう?辞書によると『人の道にかなっていて正しいこと』といった風に書いてあります。
人の道にかなっているかどうかというのは誰が決めるのでしょう?それは個人それぞれの道徳観や倫理観、物理的に云えば法律といったところでしょうか。

この”正義”というもの。人に振りかざす為に在るものではなく自戒の為にあるものだと思うのです。自らを戒めたり指針としたり――
人の振り見て我が振り直せと良く言いますが、まさにその通りで、他人様に対して正義という刀を振りかざすほど、人間は間違いを侵さないと言い切れるわけではないはずです。

正しく在ることは大切かもしれません。しかしそうでない人を裁くような立場にいるかというとそれはまた違うのです。
もしも皆様が人の道や正義についてお子様や周囲の人に語ることがあれば、善すなわち正義か悪かといった分け方で説くのではなく、それが何故そうであるのかという具体案も添えてお話頂きたいなと思います。

人に振りかざす正義ではなく戒めとして皆様の心にある正義こそ真の正義であり、それは他人を糾弾したり裁いたりする為に使うものではないのです。
罪を憎んで人を憎まずとまでは言いませんが、我々人間が発展途上にある魂である以上業を積んでしまうように、路から外れることもあればまた戻ることもあるのです。
その過程も立派な学びです。

生きるという旅にマニュアルはありません。
正しいか否か、常識か否かそれだって時代や文化に左右されることもあるのです。他人様にあれこれ言う時間を自分の為に向けた方が余程建設的で下手に業を重ねることもないように思います。

自分自身がどんなポリシーを持って生きゆくか、其処から焦点がぶれなければ日々反省と精進の連続となり他人様を非情に裁くような人は少なくなるのになと、インターネットのニュースのコメント欄を見ながら何だか寂しい気持ちになりつつ、今日の一筆でした。

明日は祝日。寒さに負けず充実した毎日をお過ごし下さいね。