人を支えるということ。 | 秋月せいらオフィシャルブログ「〜徒然なるままに〜」Powered by Ameba
皆様こんにちは。
ブログを書くぞ!と宣言したにもかかわらずこの日にちの空きはご愛嬌…
さてもう11月も一週間を過ぎました。年末の足音が大きなノイズと共に背中にのしかかるように思うのはきっと私だけでしょうか。

さて週末は幼なじみの結婚式でした。私の幼なじみはこれで全員既婚者となり名ばかりの独身貴族は私だけとなってしまいましたが、久々に集まって色々な話をすると皆それぞれに結婚後の悩みというものがあり、それが深刻なものも。
仕事で夫婦の不和の話をお伺いする時は割り切って聞いていても、友人の話となると何もしてあげられない分、気持ちばかりが持っていかれて自らの不甲斐なさと、やるせなさに苛まれることでした。

私は10代のころ地獄のような心模様で日々を過ごしましたが、その中でこの友人達が毎日毎日我が家に入り浸って私を支えてくれました。
普段は互いに憎まれ口ばかりで改まって感謝の気持ちを伝えたことはないのですが、彼らのピンチの際は一番に私が助ける!と思っていただけに、手の出せない問題だとただただ嘆くばかりです。

さて本日は”人を支えるということ”というお題でお話を致します。
当方のクライアント様、お人好しな(過ぎる?)方が多く、何かしてあげられないか、これをこうしたらどうだろうか?とご質問を頂くことがままあります。
端から見ればそこまであなたがしなくても良いのでは?と思うような大掛かりなことであっても、手をこまねいている方が気持ちが落ち着かないとおっしゃいます。

人を助けたり支えたりするということは、まず自分自身がしっかり二本足で立てていること、そして時間や心の余裕、物質のどれかまたを何れもがある程度人に分けてあげられるくらいの器であることが必要です。
時間がなければそもそも本末転倒ですし、心の余裕がないまま下手に関わってしまうと共倒れの恐れがあります。物質的に余裕がなければ相手の満足いくものを援助はしてあげられないかもしれません。(寄付などがそうですね)

人を支える為にそれらを持ち合わせるというのは即ちそれが自らのキャパシティーであり、キャパシティーなしにはなかなか満足のゆくそして自分自身が共倒れにならない支え方は厳しいように思います。
気持ちが大切なのは勿論ですが、人が本当にピンチになったとき気持ちだけで手を差し伸べてもそれには限界があることがあるのです。
勿論愚痴を聞く程度のことであればそれで十分ですが。

例えば今回は自分の器や能力の不足ゆえに”見守ること”、”祈ること”しか出来ないけれどと自らを責める方もいますが、それだって十分に気持ちとして伝わり、想念として支えになるかもしれません。
そして次回同じような状況が訪れた時に万全の体制で臨めるように自分自身を向上させるべく精進することで、助け合うことや”お互い様”を本当の意味で実行出来るようになるのかもしれません。

また手助けとお節介の瀬戸際もとても難しい所ですが、そのお相手との間柄を考慮した上で控えめに立ち回ることも大切ですね。

困った時はお互い様ですが、受けた恩は一生といえば大げさですがそのくらいの感謝の念を持って日々生きてゆきたいものです。

そんな今日の一筆でした。
晴れやかな秋晴れの下、素敵な週末をお過ごし下さいね。