その心配は誰の為? | 秋月せいらオフィシャルブログ「〜徒然なるままに〜」Powered by Ameba
こんにちは。5月も中ごろになり、皆様5月病などに見舞われてません
でしょうか?連日の朝晩の寒暖の差に心身のバランスのケアをなさって
下さいませ。

私はといいますと、最近必要に迫られて暗記ものに追われているのですが、
ぶつぶつ言いながら覚えていると、それが癖になって心の声がだだ漏れに
なるという困ったことになっています。
先日はスーパーで『あーあれもだった、あ!そうかこれはこうね』と全部
音になっていて、とても恥ずかしい思いをしましたが、そんな私は今日も平穏です。


さて、今日は何をお話しようかなぁとネタ帳を何度もスクロールするほど
なかなか思いつきませんが、『心配とは誰のためにするのか』ということに
ついてお話致します。


ご相談にいらっしゃる方のほとんどの方がご自身のことだけでなく、家族や
周囲のことについても聞いていかれます。
その中で過剰にお子様のことなどをご心配なさっていらっしゃる方がいます。
子供は出来るのか、本当に将来大丈夫なのか、うちの子は何にも考えていない、
親は長生き出来るだろうか。など言葉にすると当たり前に聞こえるのですが、
それを過剰にご心配なさっている様子をお見受けしますと、それは誰のための
心配なのかな?と思うことが時々あるのです。言い換えればそれは自分のために
心配しているのでは?と疑問を持ってしまいます。
自分が安心したいが為の心配。それはもはや相手のためにはなっていませんね。
自分が安心するために、子供が人様と足並みの揃った人生であってほしい、
自分の心が右往左往しないために両親に元気でいて欲しい。など、真っ当
ではない”心配”が潜在意識に見え隠れすることがあります。
潜在意識なので、言っているご本人は勿論無自覚なのですが、その真っ当ではない
心配の念は、スピリチュアル的にみますと、心配ごとの対象者への人生の妨げになります。


本来相手を心配するということは、その方を大事に思うからこそ生まれる感情です。
それでもその対象とする方が決めたことを、信じて見守るということが大前提になります。
そしてその念が、相手への守りになったり、背中を押す一つの力になったりします。
しかし、このような心配の仕方ではない先に申し上げたような、自分のための心配と
なると、心配をしている本人の意識が、知らず知らず自分の思った通りの方向に進んで欲しい
という念になってしまいます。そうすると、対象者の思っている方向性と無意識に
こちら側が飛ばしている念との力がぶつかって、どちらにとってもいい結果にならなかった
ということになるのです。

『人の念あなどるなかれ』で、人が発する念というのは、強弱の差異はあれど、色々な場面で
影響を及ぼすものです。
本人が幸せであることが一番!と細かな方向性に対する相違はあれど、暖かい気持ちで
守って差し上げられる念と共に”心配”という感情を抱いていただきたいなぁと思うことです。

ご自身が育てたお子様、ご自身を育て上げたご両親、ご自身が選んだご友人やお知り合い。
良くも悪くも全てご自身に縁あって近くにいらっしゃる方です。
大切に思うあまり、心配の方向性がおかしくなっていないか、相手を尊重できているのか。
今一度振り返っていただきたいです。


そんな今日の一筆でした。