前の記事の続きから書かせていただきます(^O^)
これで雑学もパート170だ!(^O^)
三つ目の雑学は、五目並べを流行させた人物は誰か?について書きたいと思います。
五目並べは正式には連珠(れんじゅ)と言うそうですが、このゲームを流行させたのは、明治の名翻訳家黒岩涙香(くろいわるいこう)だそうです。
欧米の探偵小説を次々と翻訳して名声を得た涙香は、明治二五年(一八九二年)に自ら「万朝報(よろずちょうほう)という新聞を発行し、この紙上で涙香は五目並べを紹介したのだそうです。
この考案者はよくわかっていませんが、涙香は「三三」などの禁手を決め、ルールを定着させ、この遊びを日本中に広めたようです。
四つ目の雑学は、クレジット販売のルーツは何か?について書きたいと思います。
江戸時代頃から、財政難を解消するために各地で特産品作りが奨励されたり、地場産業育成が試みられたりしたそうで、ここで活躍したのが商人です。
近江商人等が有名ですが、伊予商人もまた人的特産品と言えるほどの商売上手だっただそうです。
伊予商人といっても、天領だった桜井(現・今治市)の商人が中心みたいです。
彼らは江戸時代から九州方面を対象に商売をしていたが、扱うのは地元の産物ではなく、唐津(からつ)、伊万里(いまり)などの陶器だったようです。
これを瀬戸内海の海運を使って四国や中国地方の各港に寄りながら関西方面まで売り歩いていたそうです。
帰りも手ぶらではなく、紀州黒江の特産品である漆器を仕入れて逆コースで行商をしていたみたいです。
そのうち陶器より高価な漆器だけを扱う方が利幅が大きいため、漆器だけを行商するようになったそうです。
これが瀬戸内海名物、「椀船(わんぶね)」です。
客は瀬戸内海沿岸地域から九州にかけての農村でした。
ただ農民にとって漆器は高級品なので、一度に代金は払えないから、盆暮れにまとめて払う、いわゆる節季払いという信用取引が行われていたそうです。
この時培った客との信頼関係が、明治時代以降の新しい販売形態の考案に結びついたわけです。
鉄道の敷設で交通が発達しますと、効率の悪い椀船行商をやめて、商人たちはグループ販売をはじめたそうです。
先遣隊が見本を並べて注文を取り、二番手グループが商品を届け、集金組が代金を受け取るという方法でした。
その頃には、勤め人と言われる層が生まれていて客に月給取りが増えていきました。
そこで集金も月ごとに少しずつ受け取るようになり、これが月賦制の誕生となったようです。
やがて扱う商品も漆器だけに限らなくなり、家具や衣服、貴金属まで広がりました。
商品先渡し、代金分割払いという現在のクレジット販売は、こうして伊予商人によって編み出されたと言われています。
伊予商人は先を読んでいたからこういった販売形態が出来たかもしれませんね(゜∇゜)
こうやって便利なクレジット販売が出来た背景にこういった話しがあるのって面白いものですね(^O^)
少しクレジット販売の仕組みがわかった感じです(^O^)
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ここまで読んでくださってありがとうございましたm(_ _)m