与次郎稲荷 | 不思議なことはあったほうがいい

 秋田県、山形県にわたって語り継がれている物語。
 江戸初期、急ぎお城を作っていた秋田の殿様の夢枕に、住処を失った白狐があらわれて、窮状を訴えた。よって狐に土地を与えその見返りに殿様のため働くことを約した……。その狐が化けたのが与次郎という飛脚。江戸・秋田間をわずか六日で行き来し、活躍したという。その健脚ぶりに嫉妬した他の飛脚たちが、毒入りアブラアゲを使って山形・六田の地にて与次郎を殺害。しかし、その祟りによって、関係者が次々に倒れてゆく。その祟りを鎮めるため(あるいは殿様が話を聞いて哀れんで)稲荷として祭った。その稲荷社は旧久保田城跡・千秋公園内にある。
 一方、与次郎が殺害された山形県東根市の側にも同様の稲荷があるが、そっちでは、与次郎が定宿としていた間右衛門という男の娘・お花との悲恋話がくっついてくる。与次郎は間右衛門に命を狙われて間一髪お花の手引きで脱出するも、猟師の仕掛けたアブラアゲの罠に、一度は通り過ぎるものの、結局立ち帰り、撃たれたのであった……東根は「さくらんぼの種とばし大会」をしたりしてTVでもよく紹介されるが、健脚の与次郎にあやかって、同時期マラソン大会も開かれる。かつてゲスト参加した高橋尚子選手も「マラソンの神様」としてこのお稲荷さんにおまいりしたそうだ。
 狐は言うまでもなくもともとはお稲荷さん(ウカノミタマ)のお使い(神使)であったのだが、いつのまにかマツラれる存在に出世した。狐のお使いというと「宇治拾遺」の「芋粥」の話で、藤原利仁が狐を捕らえて、「今から家に帰る」と伝言させたって話を思い出す。狐の飛脚は「お使い」役として実は天職というわけだ。


 さて、この話の殿様、佐竹義宣は戦国末期の武将。かの伊達政宗のライバル的存在であった。秀吉の小田原攻め参加をきっかけに常陸一国を領有し戦国六大名と賞されるまでガンバッタが、石田三成と親しかったため、関ヶ原においては東西どっちつかずの状況に陥ってしまった。その曖昧さがたたって、戦後、常陸から秋田へと転封とされてしまったのだった。史実的には1602年9月に秋田へ入り、翌5月には久保田築城開始、その翌年8月には城に入るという急ピッチであった。久保田城は天守閣・石垣などをもたない、堀と土手だけの城……今だ臨戦態勢であったといえようか。城周辺の町はフクザツな碁盤目状に整理され、攻められたときに自動的に防衛線の役割を果たすつくりであったという。実は三成は生きていて、佐竹にかくまわれているのだ、という噂もあったらしく、オチオチノンビリしていられない状況、なんでも義宣はその素顔さえ一部の家臣しかしらなかったとか・部屋の出入りには槍を携えたとか、そんなピリピリした時期を舞台とした伝説。
 今とちがってインターネットも電話もなけりゃ手紙だってない。普通の飛脚なら秋田・江戸間2週間くらいかかったらしいから、情報をいかに早く手に入れるかはまさに生きるか死ぬかであったこと、今流行り(?)の山本勘助の活躍を見るまでもない。超人的飛脚=情報員を佐竹義宣が抱えもっていたであろうことは間違いない。与次郎は佐竹の放った密使・隠密であり、その事実を隠す為キツネの仕業に伝説化したのだ……という説もある。

 このお話には
1 住処を追われた狐をマツッタ話
2 殿様を助けた超人(まるでキツネ)がいて、襲撃にあう話。
3 苦難の末に結ばれぬ哀れなカップルの話
 の三つの融合があるんじゃなかろうかな?


 久保田城の築城と並んで、主要道路や橋・河川などの整備も同時期に急速に行われ、さらに大規模な一斉検地、鉱山開発、「秋田杉」の切り出しによる資金調達……秋田はいわば「開発ラッシュ」のさなかにあったのだった。
 こうした開発の影にはかならず先住民とのいさかいが起こる。秋田の場合はそれが「白狐」として表現されたのであった。

 こういう話はけっこう全国にあるんじゃないか?
 ……出不精の僕が行った事のある都内の有名どころ……。
 今はなき(だから実物は見ていないのだが(汗)「羽田空港の大鳥居」。もとは新田開発で住処をおわれた狐を鈴木弥五右衛門という名主がマツッたのだという。
 上野公園の花園神社内にヒッソリとある「穴の稲荷」も住処をなくした上野の狐を天海がまつったものだという。
 東京ドームにちかい、小石川の澤蔵主稲荷は妖力すぐれた白狐が持っていた十一面観音をマツルが、その境内には区画整理で置き場のなくなった稲荷祠が集まっている…
 …侵略者側の「良心の痛み」とでもいおうか。自己正当化のために過去をマツルことで清算しているのだ。
 
 佐竹義宣は秋田にきてから、家柄などにとらわれず能力のある人材をドシドシ登用したという。久保田城の普請奉行・渋江政光は、秀吉に抵抗し改易となった元下野小山氏家臣で、浪人の身からの大抜擢組。彼に対しては古参家臣による暗殺計画もあった。同じく秋田へきてから頭角をあらわした梅津政景は能代地方の農業用水路開発に功績あり、地元・岩堰神社の大明神としてマツラれている……など。

 与次郎も周りの人々からみれば、エタイの知れないよそ者・新参者であり、それがまたズ抜けた才能(情報伝達能力)をもっていたとなれば、古参から「暗殺」されてもおかしくない。それは殿様には哀れなことに映ったであろう。実際、義宣は渋江暗殺計画にたいしてはその首謀者たちを極刑として血の涙を流したのだった。

 与次郎狐のお話しは、ときの佐竹・秋田をとりまく諸状況をみごとに反映している伝説といえる。ちょっとカッコイイね!


 ところで、これより十年ほど前、遠く離れた鳥取城に経蔵坊(慶蔵坊)というキツネがいた。恋人「おとん女郎」に遭うため通って行く道中、いったんは通りすぎたのだが……猟師たちがしかけた罠におちる。これを哀れんだ鳥取城主・宮部継潤は、二の丸に中坂稲荷神社を建てて今に残る。宮部継潤は、元比叡山の坊主で善祥坊とも名乗る。浅井をへて、秀吉につかえ、但馬山名氏を滅ぼし、因幡鳥取城主となった。ところが、彼の嫡子・長房は関ヶ原では西軍についた。ために宮部家は鳥取を追われ、南部藩に預けられ盛岡に住んだ。アレ?……盛岡から国道46号線まっすぐいけば秋田じゃん! 秋田から山形東根って国道13号線でいけるんじゃん? たしか13号線の旧道は義宣の代に開かれたって秋田県のHPにのってたぞ。(http://www.iimachi-akita.jp/ )……っていっても江戸初期とは道筋が違うか……調べる時間が欲しいなあ。

 空想。鳥取の殿様が南部藩あずかりになって、岩手発の鳥取の話と、秋田の話とが、交通の要衝となりつつあった山形でドッキングして、完成されていったんじゃないかなあ。ほんとうは「とっとりの殿様」の話がなまって、「となりの殿様」の話になったとか。……これ皿屋敷でも似たような説があるね。

 あ、あと、「飛脚殺し」ってひょっとしたら「六部殺し」だったかもね。