昨日の朝、目が覚めたベッドの中で最初に目にしたニュースがノートルダム大聖堂の火災だった。

パリは仕事で度々訪れた街だ。
ノートルダム大聖堂を初めて訪れたのは学生時代だが、その時はパリの街を楽しむことに夢中でさほど記憶に残らなかった。28歳の頃、仕事で再びパリへ行った際に夕飯前の空き時間を利用した散歩がてらに、ふと立ち寄った。

建築物はとかく外観が有名になりがちだが、ノートルダムは内部空間の壮観さに驚かされた。天井の高い、大きな空間の中を、幾つもの柱がまっすぐに上に向かって伸びている。ヨーロッパにある大聖堂は幾つか訪れたことがあるが、なぜかこれほどに強く柱の印象を私に残したところはない。
まるで森の中を歩いているようだ。(実際にあれほどの木材が天井裏に隠れていたとは思いもよらなかったが。。。)
かつて哲学者や詩人は思索にふけるために森を歩いたと聞くが、ノートルダムは街の中でそれを体感させてくれる。巨大な樹が林立しているような空間で小さな存在になった自分を感じると、自然と自分の中へと意識が向いてくる。

柱や壁面に施された彫刻や大きなステンドグラスが素晴らしく美しいのは、言うまでもないが、私にとって建築物というのはそう言ったディテールが積み重なった空間であって、訪れる人の身体に空間が作る圧力のようなものを感じさせるものだ。
ノートルダムは特別な感覚を呼び覚ますだけの空間のパワーがある。

宗教のことを語るのは難しい問題だし、そもそも宗教観の乏しい私には全く向いていないが、宗教が作り出す建築物は理屈抜きで人々に感動を起こす。特に政治や権力と密接に繋がっていた時代のものは、建設背景に賛否はあるものの、多くのエネルギーが注入されていて圧倒的な存在感を持つ。今、このような建築物が誕生することはおよそ不可能だろう。

そしてやはり人間が生み出すものはその時代と切り離せず、それだけに価値がある。先日ドイツのドレスデンで代々王室に伝わる至宝の品々を見た。贅を凝らした素材とそれに見合った高度な技、デザインは有無も言わさぬ説得力がある。
おそらく今でも作ろうと思えば作れるのだろうけれど、作ったとしても最早レプリカでしかないのだろうな、と思った。当時最先端にあったものだったからこそ美しく存在感がある。

ノートルダムは不幸なことに一部を失うことになってしまったけれど、一部で済むことができた。この1000年で技術は蓄積されている。15年はかかるとされる修復工事も、これまでの1000年の歴史とこれから作られる数千年の歴史から見たらほんの一瞬だ。
多額に及ぶであろう修復費用では、資本主義の猛者たちからたくさんの善意が寄せられているという。非常に残念な出来事の中にも前向きにさせてくれる明るいニュースが登場するものだ。