この痛みや苦しみに耐えて
いったい何になるのだろうと
ずっと考えてきた。
「なにか」になることは
おそらくこれからもない。
けれど
誰かの痛みを知ったとき
心の底からの「わかる」を
言える瞬間がある。
それは確かにある。
だからなんだって
それがなんだって
思う自分だっている。
それでもその相手が
たとえば若い子や子どもだとしたら。
それにはちゃんと
意味があると思う。
救えるなんて思ってない。
そんなたいそうなことは
できるわけがない。
それでもそれまで
その子が誰にも言えず
共感されることもなく
抱えてきた問題に
私が心底の本気の「わかる」を
言えたのだとしら。
それはそれで私が長年
苦しんできた意味が
なくはないのかもしれないと
思えるかもしれない。
かもしれない話。