安定期 | ストローク

ストローク

45才働き盛りを脳卒中が襲った。

仕事も落ち着き気分も安定してきた。目標も定まり、あの日以前の自分を取り戻しつつあった。
人を幸せにする際の比喩としてよくコップに満たされた水の話が使われる。正にその通りだと感じた
あの日以前のカオルはまずキョウコを満足させることに必死だった。しかし的外れなことに夢中になっていたのだ。自分が満たされていない立場で他人を幸せに出来る訳が無かったのだ。しかし遅すぎた。時間はたっぷりとあったはずだ。でももういい。今は気付いたのだ。まず自分を満足させるという事に気付いた。カオルはピントがずれていた。キョウコを満足させることで自分に自由が得られると思っていたのだ。その考えではキョウコを満足させることが出来ないばかりか、俺はこれほどお前の事を考えているのだとキョウコに自分の独りよがりを押し付けてきたのだ。しかし、人の幸せ等を測ることなどできなかった。「どう思ってくれるか」に焦点を持ったカオルははっきり言って消耗した。「自分が何をしてあげたいのか」なら考える必要もなく素直に行動できたはずだ。
でもキョウコ相手に自分だけを満足させられることが出来たのかと言われると難しかっただろう。  しかし気付いてよかった。
ところで本当の幸せを得るためにこんなにも険しい道を遠回りしなければならなかった自分が情けなかった。 でも、もういいじゃないかと自分を納得させた。これからも時間はたっぷりある。あと20年全てが幸せならそれでも十分ではないか。キョウコとの夫婦生活はノーサイドとなったがキョウコには家族など必要なかったのかもしれないしこれで良かったのだ。カオルだって妻など不要だったかも知れない。子供を産んでくれただけでも素晴らしいことなのだ。キョウコに感謝しないと  
もう悩まない。仕事もやっていける。あの日から500日が経ちやっと迎えた安定期だ。


甲子園球場でいつものようにビールを頼んだ。いつもと違うのは飲む本数だ。一杯だけ飲み干すと弁当を買いに外野コンコースに出た。弁当を持つ手が正座を続けた足裏のように痺れた。異変に気付くと忽ち身体を支えることが出来なくなった。長男の前でそのまま倒れこみiphoneを渡した。長男に喋りかけようとする口元が言う事を聞かない。呂律が回らず、恐怖が襲ってきた。父親と社員の二人の身近な脳卒中経験者を持つカオルにとって何の前触れかを意識するのに時間は必要としなかった。弁当屋のスタッフに救急車を頼み長男から取り上げたiphoneでキョウコに「脳卒中になった。今どこにいる?」キョウコは救急車よりも早く駆け付けた。甲子園球場の医務室に運ばれたカオルの意識ははっきりしていた。救急車に乗る長男が持つ甲子園名物の焼き鳥が救急車 車内に落ちてたれで汚れた車床に気を使った事を今でも鮮明に覚えているくらいだ。
ところが手術が終わってからの頭の中は混乱続きだった。カオルの壊れた脳の中では入院中のベットはキョウコと暮らし始めた狭いアパートの中だった。ドクターに「許可もなくこんなところで医療行為をするのは違法だ」と食って掛った。看護師には妹と間違えて「病院でふざけるものではないと」一喝した。三階の病床からは見えるはずのない通天閣が見えその見える窓がぐるぐる変わり看護師に「ここの病棟は回転しているのか」と何度も問いかけた。カオルには現実にしか思えない景色は全てが壊れた脳が写し出したカオルだけの現実だった。