徳郁より後から始めた美憂は、徳郁が中学生の時、最年少の17歳で世界チャンピオンになりました。

その年の夏は(世界選手権は夏の終わりにありました。)、徳郁が美憂のパートナーのために友達と遊ぶ事もなく、毎日自分のためじゃなく姉のサポートのためにレスリングをしていました。





その後、徳郁はアメリカへ留学したり、オリンピックの選考のために日本の大学に戻ってレスリングをしました。




徳郁が大学4年の頃、今度は後から始めた妹の聖子が世界チャンピオンになりました。




そして、聖子が世界チャンピオンになって日本に戻ってくる途中、母憲子が闘病先の病院で亡くなりました。




空港で聖子を待っていたのは何も言わない姉の美憂でした。

姉は何も聖子に伝えないまま、母のいる病院に連れて行きました。

病院の前では徳郁が待っていました。

徳郁は沢山泣いていました。

徳郁は聖子の肩を抱きしめ、聖子を母の元へと連れて行きました。

聖子はお見舞いでは何度も行ったことのある病院ですが、いつもと違う場所に連れて行かれました。

聖子の前には、シーツで覆われた母憲子がいました。

聖子は母に見せようとしていた金メダルを持っていました。

聖子は母の手に金メダルを置きました。





念願の世界チャンピオンになった聖子は、母が亡くなりチャンピオンになっても全く嬉しくありませんでした。レスリングも辞めるため、大学の寮を姉に手伝ってもらい、逃げる様にして出ました。

美憂も聖子も、母の死で何をしていけばいいのかわからなくなっていました。




徳郁には、母の死の直後大学選手権という大会が数日後に迫っていました。徳郁には減量もありました。

練習は思ったようにはできませんでした。

徳郁は、それでも試合に出る事を決めました。

徳郁は勝ちました。

徳郁の勝ちは、母という火を失った家族にまた火を灯してくれました。

父は徳郁の勝ちを喜び、美憂も聖子も喜びました。






それからしばらくして、徳郁にはオリンピックの選考会がありました。

決勝まで行き、7点差で勝っていました。

7点差はみるみるうちに追いつかれ、逆転されてしまいました。

徳郁は負け、代表にはなれませんでした。







そして、徳郁はレスリングを辞めました。








レスリングを辞めた徳郁は、すぐに総合格闘技に出会いました。











後から始めた美憂と聖子が世界チャンピオンになって、徳郁がどう感じていたのかは姉妹ですら聞いた事ないので、誰も分かりません。





けれども、徳郁がまだまだ無名の時、あるインタビューで話していました。


 



「姉ちゃんも妹も世界チャンピオンなってるから、俺もなんとかしないと。」







同じ競技で後から始めた美憂、聖子、姉妹2人がチャンピオンになり、その一方徳郁は選考会で負けレスリングを辞めましたが、









徳郁は何かを諦めたわけではありませんでした。












(多分また)つづく〜