コーヒー | ニューヨーク狂人日記

コーヒー

ベンチで魔法瓶のコーヒーを飲む。
外でくつろぐ人も少なくなってきた。

初めてのコーヒーはいつだったろう?
歳の離れた従兄が帰省した折りに
飲ませてくれた情景が浮かんでくる。
やはりあれが最初なのか。

「ゴリゴリ、ゴリゴリ……」
木製ミルのハンドルを回しながら浅黒い豆を挽いていく。
立ち込める初めての匂い。
火を点けたアルコールランプをフラスコの下にあてる。
サイフォンで淹れてくれた。

そう、コーヒーには。
いや、珈琲には
淹れるという漢字がよく似合う。
コーヒー・スタンドよりも喫茶店が似合うように。
淹れるという言葉が、
その、一種儀式めいた一連の行為を凝縮している。

ただ単に飲み物の準備をするという
動きの集合体であるだけではなく、
そこには冒しがたい精神性のようなものがあった。



今のようにカフェインの引き起こす害について
取り沙汰されていたわけではないけれど。
あの頃もやはり、
コーヒーは大人の飲み物だった。



いつしか自宅のインスタント・コーヒーも
ネスカフェの黒ラベルからGOLDへ替わっていた。
机の横にはいつも
丸盆にのせられた魔法瓶とクリープ
そしてインスタント・コーヒー。

1階の物音がやむとコーヒーを飲む。
時折通り過ぎる車の音とラジオ。
夜の闇が深かった頃。


コーヒーの味ではなく、
それを飲むという行為そのものに、
飲んでいる自分自身にひたっていた。

何かのために勉強をしていたのだとしたら、
それはコーヒーを飲む、おいしく飲むということだ。
医者になったり大会社へ入るための勉強ではなくて。
ただ、コーヒーを飲むために勉強をしていた。
その時間を手に入れるために。



クリープをいれなくなった。
砂糖を入れなくなった。



このところ「夢」という言葉の乱用が目立つ。
大安売りの挙句その価値は暴落してしまった。
夢とはそんな簡単なものではない。
形にできるものは夢ですらない。

コーヒー。
いや、勉強はコーヒーーというもののため。
言い換えれば大人になるためだったように
今にして思う。
その立ち位置は酒やタバコとは少し違う。

出世や金持ちになることを〈夢〉と言う人が多い中、
あの当時、ぼくの夢はコーヒー。
その周囲にある
他よりほんの少しだけ重く
香りをたててまとわりつくものこそが夢だった。

夢という言葉に関して言えば
こちらの方が幾層倍も純然としていて
夢らしいと思うのだけれどどうだろう?

努力の結晶として、結果として叶うものを
夢と言うことはぼくにはできない。
夢にはカタチがあってはならず。
はなはだ漠としてものでなければならない。

あまにりも安易に夢という言葉を使わないでほしい。
そんな言葉で人々を導き、惑わすのはやめにしてほしい。
言葉に頼らねば何かをなしとげられないのか。
夢の価値をそこまで貶めていいものなのか。



ピープル・ウォッチングというものを
初めて意識したのもコーヒーと一緒だった。
熊本市の繁華街、新市街と下通りの角にある(あった?〉
マクドナルドの2階から。
スタイロ・フォームのカップを片手に。

アメリカにいることを感じたのも
コーヒーと一緒だった。不思議とビールではなくて。
ダイナーの窓際の席でいつまでもいつまでも。
薄いコーヒーを何杯もおかわりしながら
話し込んだいくつもの夜。
車のヘッドライト。ネオンサイン。
少しずつ空が白くなってくる。


アメリカ縦横断の旅でも
車内ではいつもコーヒーとラジオの音が揺れていた。

ヨーロッパでは
濃いコーヒーですぐにお腹いっぱいになり、
アメリカーノばかりを飲んでいた。



この6年間。
コーヒーを飲むのは年に数えるほど。
そんなぼくがこの2ヶ月ほど
また毎日コーヒーを飲むようになっている。
朝のテーブル。
昼の机。
いつだってそばにはコーヒーがある。

新しいコーヒーの章が始まったみたいだ。
湯気の向こうにはどんな夢が広がっていくのだろう。

ミルクを入れなくなった。
砂糖を入れなくなった。

$ニューヨーク狂人日記



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