人造人間
最初におもちゃを作ったのは誰?
それまで様々な物ををおもちゃにしてきた子供たちに玩具を与えたのは誰?
動物にインプットされている手なぐさみ回路。
タイル床に落ちた氷でホッケー・ゲームに夢中なネコみたいに。
あそぼうと思えばなんでもおもちゃになる。
カメラ付き携帯というよりも、携帯付きカメラと言う方が正確だったぼくの携帯も、
先週に機種変更をしてからは格好のおもちゃになった。
家であそび、外でもあそぶ。
iPhoneではなく、Androidという携帯。
使い出して間のないせいもあって面白い、面白い。
ゲームをするわけじゃないけど。
まあ、自分にとってはゲームのようなもの。
「持てあます西瓜ひとつやひとり者」で始まる、
永井荷風『西瓜』をバー・カウンターで読み、
昭和12年に西洋西瓜があったことに驚いてみたり。
薄暗がりで読むこの感覚がいい。
オンライン・ストレージに放り込んでいたメモを読んでみたり。
とはいっても、2年間使っていた紙copi.netというのはAndroid対応ではなく、
しかもエクスポートできず。
昨日は800あまりのファイルをEvernoteという別のオンライン・ストレージに手作業で移す始末。
ま、これもあそびのための苦しみで、
人間は(ぼくは?)あそびのためならなんでもする動物だという生きた標本。
6時間をかけた成果のおもちゃは飽きない。、
北京五輪の頃の、自分の断片を眺めてニヤつく。
「おのれは阿呆か……」つぶやいてみたり。
小さな箱入りのもうひとりの自分をポケットに入れて。
いろいろな機能を持たせることができそうだけれど、
結局、この先も一番あそんでもらうのは自分という確信がある。
バカらしいところ、納得いくところもひっくるめて。
こうして書いている今でさえ、インクの乾く前にはもう分身になっている自分。
そんな足音と残滓の積りに、積もった結晶である自分。
プラスでもなく、マイナスでもない。
今その時がないから、少しだけマイナスか。
嫌いで、大好きな自分。
そんな自分と語りあえるだけでおもちゃを手にした価値はある。
ぼくにとって最大のあそび、おもちゃというのはやっぱり自分。
一生をかけて作り上げる納得のいくおもちゃ。
たったひとつのおもちゃを作っていく。
完成したときがお別れのとき。
いや、お別れのときが完成のときかな。
さかいせいき、というおもちゃ。
無愛想なおもちゃ。
あまりしゃべらないおもちゃ。
反応が遅いおもちゃ。
…………
おもちゃ箱の中にたったひとつ転がる。
それにしてもAndroidという命名は絶妙だ。
少なくともぼくにとっては。