私の人生はブログを断絶した人生だった。
小学校から中学校にかけては野球に専一していたため、ブログなど歯牙にもかける暇がなかった。
白球を追いかけて仲間と共にした青春の裏側で、ブログは私に目もくれず甲斐甲斐しくプラットフォームとしての役割に徹した。
やがて私は、高校に上がると、多少の文学に触れ、恋を覚えた。
優美な文体と艶やかな女性に心酔していた時分、ブログとの関係はますます無関心という名の絶壁が双方の仲を妨げていた。
だからと言って、双方の関係に深い溝ができていると勘違いしてもらっては困る。
互いに存在を認識していないが故に交流がなかったのであって、決して仲たがいを起こしたり、相性が悪かったりしてはいない。
生来、距離は一定である。
ただし、唯一私にもブログの活動を確認する場面に些か遭遇することがある。
それは、時折ニュース番組を介して、著名人がブログで結婚発表をしている報道を知る時だ。
ブログの存在は一瞬だけ私の中でスポットライトが当たるが、すぐさま結婚した著名人の話題に目を移す。
ただこれまでは、著名人の結婚報道をテレビのニュースで伝えるためだけの媒体であるとしか考えていなかった。
しかし、年が経るにつれて、大々的にプラットフォームとしての手柄を独占することもなく、謙虚でさりげない気遣いに今では感心する。あくまでも、著名人やテレビに控えめな姿勢で、媒体以上の振舞いを見せていない点はなかなか好感を与える。
燦然と輝いて見える著名人だけを注目していた頃には看破できなかった、内奥に魅惑するものを孕んでいる。
ああ、この様な精華を発見しておいてどうしてブログに無関心でいられるだろうか?
もしかすると、名も知らぬ通りかかったある人が昂然として次の文句を矛にして反論するかもしれない。
「なーに、SNSの投稿だって他の媒体でも紹介されることだってあるではないか!!ましてや、ブログだって最盛期の頃には胸を張って闊歩し、居丈高に座を有していたではないか!!!」と。
そんなことは知ったことではない。私はこの意見に応対する必要がない。なぜならば、私はそんな時代を生きていないのだから。
知らないからこそ、私にとってはブログが述懐した如く映るのだ。
そこに、時代背景を用いても私の心は靡かない。私の情動を促すのは客観的な根拠ではない。
私は私の感性に導かれ、その先に何かがあることを確信する。
時間や他者やその他諸々の関係が私の感性を阻害することはできない。
私は遂に、ブログに対する無関心の壁を打ち壊したのである。
ともかく、私は20年の月日をかけて漸く、初めてのブログを書いてみようと試みたのである。