去る6月1日に成城寺小屋講座の「土曜会」を開催しました。

今回は4月の土曜会に引き続き、70年代~80年代の寺小屋教室の活動、とりわけ藤井貞和先生の源氏講座での成果を中心に議論をおこないました。

報告要旨は以下です。

 

 

◇藤井源氏物語論にみる阿闍世王説話――その過去・現在・未来

○提題にかえて 山本ひろ子

藤井貞和氏の源氏研究は、半世紀を越える研鑽と厖大な知的集積の上に成り立つ。全体像の眺望こそできないが、その特質は、構造人類学における婚姻規制・タブーの問題を源氏物語の考察に導入・援用したこと、もうひとつは、精神分析において提唱された阿闍世コンプレックスを、宇治十帖、とりわけ薫の造型に探ろうとした試みだろう。

とりわけ私たちにとって意義深いのは、これらの発想と考究が70年代末~80年代初めの、かつての寺小屋教室における源氏物語講座の“現場”から生み出されたことだ。

(いうまでもなく現・成城寺小屋講座は、かつての寺小屋教室の伝統を引く。)

その一人、安川洋子さんの仕事を再確認しつつ、藤井源氏論の射程と阿闍世問題がはらむ思想的文化的課題に、寺小屋の若き精鋭が挑む。

 

○報告(1) 山本真之介「阿闍世コンプレックス」論の妥当性と射程

古沢平作(1897-1968)が提起した「阿闍世コンプレックス」論は、フロイトの「エディプスコンプレックス」に比肩しうるものとして、精神分析学や日本文化論の中で取り上げられてきた。これは仏典にある阿闍世王物語を古沢が独自に読み替えて解釈したものであり、その成立背景には古沢自身の宗教的欲求に加えて近角常観をはじめとした近代仏教における仏典解釈の歴史が横たわっている。

つまり「阿闍世コンプレックス」論はそれが提出された時代背景に大きく拘束されるものであるのだが、戦後にこれを援用した議論ではそのことに意識を向けないままに換骨奪胎がなされているものが多い。時代背景を明らかにした上で、われわれは古沢の「阿闍世コンプレックス」論をいかに引き継ぐことができるのだろうか。

 

○報告(2)宮崎優毅「王権・救済・沈黙」から阿闍世王コンプレックス論へ―藤井源氏論と安川洋子論稿の結ぼれ

寺小屋源氏講座を磁場として生成された安川洋子「阿闍世王説話と薫の造型」は、それに続く藤井の阿闍世王コンプレックス論との関連で捉えられるべき論稿であるが、安川論考はまた、「王権・救済・沈黙」にみられるような藤井の初期の源氏論との関連でも読み解くことができる。また一方で、藤井貞和が「阿闍世王コンプレックス」「薫コンプレックス」という言葉を強調するのに対して、安川論考は、「コンプレックス」論としてではなくあくまで阿闍世王説話の援用として論じるなど、両者には見逃せない差異がある。本発表ではこれらを踏まえ、安川論考、そして藤井貞和の阿闍世王コンプレックス論の課題と可能性について検討する」(つづく)

 

 

参考図書:

藤井貞和著『構造主義のかなたへ――『源氏物語』追跡』

(笠間書院 2016)