「童子と龍神とソフィアの山」(その5) 松木まゆみ

 

建仁寺の雲龍図に擬された山本先生が時空を超えて私を鼓舞した。見られているのだ、もう逃げられない。いにしえの昔からこの地を行きかう僧侶たちも龍神の囁きを体験したのだろうか。西本宮を廻ったことが禊ぎとなったのか、神猿(まさる)のお陰か、結界に打ち勝ち、物語りの向こう側へ足を進められた。

 

晴れやかな気持ちで〝わっしょい! わっしょい!〟と登って行くと奥宮が見えてきた。「風景伝授」、あの時見た地図が立体として目の前に現れた。鏡のような「金大巌(こがねのおおいわ)」、それを隠すように両脇に鎮座する懸造(かけづくり)の「牛尾宮/八王子社」と「三宮」、巨大な磐座(いわくら)の秘密基地の如く。ここに来ると日吉大社の磐座信仰の厚さがよくわかる。そういえば登ってくる途中にも猿の霊石や巨石がいくつもあった。五角形、いや六角形の金大巌、ここから坂本の町と琵琶湖がよく見えるが、あちらからも垂直に立つ大巌がよく見えるのだろう。険峻な崖の斜面に建てられた社は、本殿と拝殿が合体し、太い柱で支えている岩盤剝き出しの下殿は、まさに廊の御子達の礼拝施設、または宮籠り(みやごもり)やあやしの乞食非人の溜り場の趣きがあった。十禅師社が八瀬村で手厚く信仰されているのも、廊の御子達が自らの出自を十禅師に求めた事に関係するのだろうか。「ジャンジョコ」さん、「十禅師の言い違えからの呼称ではないか?」と先生は言う。――私はまたここに戻ってきた――。

 

「三宮(さんのみや)宮」(左)と「牛尾宮/八王子宮」(右)

 

行くあてのない疑問を思い浮かべながら、正面に霞んで見える近江富士(三上山)と琵琶湖にサヨナラする。

中世における十禅師信仰の展開は色々とあるが、説経『愛護の若』と「日吉山王信仰」を中心に据えた考察は、地主権現と美しい稚児が融和する姿を「神の氣」集まる原始の森へと回帰させる。叡山所生の廊の御子(聖と穢の境界に住むもの)がこの空間を行き来し、「地主神」と交信し神託を受け、日吉の祭祀組織の重要な担い手として存在していたことを古代の樹木が記憶している。私はこの地に立ち、頭の中にしまってあった懐かしい絵巻を拡げて、表層の奥を覗き見ようとしている。

山本先生のソフィアの山は私達のトポス(中継所)になった。(了)

 

参考文献:『柳田国男全集(11)』「鬼の子孫」(ちくま文庫 1990)、池田昭『天皇制と八瀬童子』(東方出版 1991)、宇野日出生『八瀬童子 歴史と文化』(思文閣出版 2007)、山本ひろ子「中世日吉社の十禅師信仰と担い手集団―叡山・霊童・巫覡の三層構造をめぐって―」(『寺小屋語学文化研究所論叢』三号、寺小屋語学文化研究所、1984所収)、山本ひろ子「河原巻物の縁起的構想力をめぐって」(『物語・差別・天皇制』五月社 1985所収)、山本ひろ子『摩多羅神-我らいかなる縁ありて』(春秋社 2022)、嵯峨井建『日吉大社と山王権現』人文書院 1992)