「童子と龍神とソフィアの山」(その3) 松木まゆみ

 

雨の八瀬天満宮、歴史の十字路。

ゼミでの懇親会の折、八瀬「春祭り」に行ったことがある吉田まるさんとの会話の中、「八瀬村の人は髪を伸ばし頭の上で結い、成人しても烏帽子(えぼし)を許されず、生涯童子名を名乗り嫌ではなかったのか?」との私の問いに 「そう? 僕はすごい特権だと思うけど…」と応えた。大人を童子扱いし風貌まで似せるのは、卑職に携わるものへの差別・蔑称だと思っていた私に「特権!」と言う。その人の言葉がいつまでも残った。

 

駕輿丁(かよちょう)奉仕を自ら「悪魔祓い」と位置づけ、キヨメ役として「浄」と「穢」の境界に立つ。天皇家との絆を護りながら、夙(しゅく)神を祀り「特権」と「差別」の狭間を漂う。白と黒、両極端ではなくそこには中庸なヴェールで何かを秘し隠すような感じを受けた。八瀬童子の忍耐としたたかさを併せ持つ特殊な歴史(伝説)は私の中でますます迷宮入りしていった。

 

翌日は日吉大社へ向かう。路面電車が琵琶湖沿いに走り、三井寺に差し掛かるころ窓の外に目をやる。三井寺では輿を担いだ力者(りきしゃ)が、穴太(あのう)では土木工事に関わった石工の話が蘇る。足を延ばして「唐崎の松」や渡来人の居住地であった近江の地も見たいが時間がない、八王子山へ急ごう。雨の中、社殿に続く坂道を登り、日吉大社の東本宮山門から入る。そこにはすぐに「樹下(じゅげ)宮」が姿を現し拍子抜けした。もっと難しい出会いを期待していたのかもしれない。「樹下宮/十禅師社」、ここへの想いは2021年の講座以来ずーっと続く静かな興奮と淡い郷愁が入り混じった感覚だ。講義の時は「へぇ、そうなんだ!  先生が実際に歩いて描いた地図もあるのか」ぐらいだったが、その後じわじわと種火が燃え上がってきた。常木さんの言葉を借りると、「時空を超えて、先生の話や描写が立体として立ち上がり、雲龍図となった山本ひろ子が縦横無尽に私達を比叡の山奥へ連れ去って行く」。

 

樹下宮/十禅師社

 

山本先生の「中世日吉社の十禅師信仰と担い手集団」のテキストを渡された時、引用される文献は漢字が難しく眺めているのみだった。どういう経緯か忘れたが、常木さんと私がレポートすることに…「ヤバいのが来ちゃったな」。

悪戦苦闘しながら読み進めると「日吉大社」の多様性が現れ、そこに登場する衆人や秀麗な霊山(山塊)の描写に吸引され、「十禅師」を巡る山本先生の独自(角度の違う)の視点と考察の凄みに呑み込まれていった。十禅師宮の祭神は〝玉依姫(たまよりひめ)、創祀者の官職名、または十人の坊さんや瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)・天児屋根命(あめのこやねのみこと)〟と落ち着くところを、先生は根底から翻し、最澄が山の中で出逢った「霊妙な童子」であるとする。「一児二山王(いちちごにさんのう)」 最初に霊童としての十禅師、次に山王が現れた。

 

――帰命頂礼十禅師

 

古代的な霊場信仰は、山に棲む不思議童子を透かし見せ、童子愛好への熱い思いは、叡山の稚児崇敬の姿を浮き上がらせる。十禅師信仰の担い手には、廊の御子(ろうのみこ)という巫覡(ふげき)集団や夏堂(げどう)で十禅師に奉仕した樹下僧(じゅげそう)の存在がいた。廊の御子は十禅師社の回廊を拠点とし、雑居たむろしていた下級の賤民層である。童女の巫は「寄気殿(よりきどの)」と呼ばれ「山王権現」の憑依託宣を媒介した。叡山ゆかりの稚児信仰は、霊童を育み庇護する「僧侶」、「異類(山王の猿)」、「神」の存在があり、稚児として庇護される存在でありながら、一方では呪能を駆使する護法童子の様相を残す。その特色は、庇護する者(神)と庇護される者(稚児)の両価性を有した。(つづく)

 

参考文献:『柳田国男全集(11)』「鬼の子孫」(ちくま文庫 1990)、池田昭『天皇制と八瀬童子』(東方出版 1991)、宇野日出生『八瀬童子 歴史と文化』(思文閣出版 2007)、山本ひろ子「中世日吉社の十禅師信仰と担い手集団―叡山・霊童・巫覡の三層構造をめぐって―」(『寺小屋語学文化研究所論叢』三号、寺小屋語学文化研究所、1984所収)、山本ひろ子「河原巻物の縁起的構想力をめぐって」(『物語・差別・天皇制』五月社 1985所収)、山本ひろ子『摩多羅神-我らいかなる縁ありて』(春秋社 2022)、嵯峨井建『日吉大社と山王権現』人文書院 1992)