「童子と龍神とソフィアの山」(その2) 松木まゆみ

 

赦免地(しゃめんち)とは何なのだろうか。昔から八瀬(やせ)村は都から近い集落であり、比叡山延暦寺三塔(東塔〔とうとう〕・西塔〔さいとう〕・横川〔よかわ〕)のいずこへも最短で行ける、僧侶達にとって重宝な登山ルートであった。九世紀には天台宗三門跡 青蓮院(しょうれんいん)の所領となっており、租税や所役を負担していた。そもそも「童子」とは寺院衆徒の元において実務労働をする者達の事を指す。八瀬童子には山門配下として杣(そま)役、延暦寺座主の駕輿丁(かよちょう)や牛飼童等の雑役が課されていた。南北朝時代になると、足利軍と衝突した後醍醐天皇の比叡山逃避行を八瀬童子が手助けした。天皇の乗る輿を担ぎ、急峻な山道を、追手を振り切り駆け上る。その苦労はどれ程のものであったのであろうか。この功績により諸役免除の「綸旨(りんじ)」(天皇の意思を伝える公文書)を賜った。山門配下の八瀬童子の働きに対する褒賞としては極めて特異で破格の処遇だったという。以降明治天皇まで十五点に及ぶ歴代天皇の綸旨が残されているそうだ。

 

しかし、江戸時代に入ると延暦寺の一方的な領域改め(宝永五年)により、八瀬童子は比叡山内の自由な往来を制限された。かまぶろ運営や宮家に薪・炭を納めていた彼らにとって、山での「柴・薪等伐採禁止」は生活手段を失う死活問題である。直ちに京都町奉行所や江戸に下向し寺社奉行に愁訴したが、いずれも取り合って貰えなかった。そんな折、時の老中〝秋元但馬守喬知(あきもとたじまのかみたかとも)〟が御所に上洛することを知ると、老中の駕籠に付きまとい、死を覚悟し、捨て身の陳情を繰り返した。何度目かの嘆願の後、ついに老中の八瀬村巡見に成功した。しかしそこでも事態は動かず、急展開したのは宝永七年、前関白太政大臣近衛基凞(このえもとひろ)(八瀬にあった禁裏御料の管理者)の目に八瀬童子訴訟の一件が留った事だった。延暦寺境界内への立ち入りは許可されなかったが、八瀬村に存在する私領と寺領を他所へ移し、その他は幕府代官支配地とし〝年貢諸役一切を免除〟されたのだ。八瀬童子は歓喜した。禁裏御料を除いたすべての地が租税免除となったことに因んで始まったのが「赦免地踊」であり、「秋祭り」の時、天満宮境内 秋元神社に奉納される神事である。

 

これは老中秋元但馬守喬知の働きで叶ったものではないが、八瀬村まで足を運び、度重なる愁訴に対応してくれた老中に感謝し、神様として祀ったことに由来する。赦免地踊の哀愁漂う厳かさは秋元喬知の霊に寄り添う鎮魂もあるが、八瀬村を守った先祖達の血の滲む行為への謝意にもあるのだろう。租税免除は戦前まで続いたが、明治維新後は他地域との公平性上、いったん税を納めるがそれに相当する金額を宮内省から下賜する仕組みになったという。(つづく)

 

参考文献:『柳田国男全集(11)』「鬼の子孫」(ちくま文庫 1990)、池田昭『天皇制と八瀬童子』(東方出版 1991)、宇野日出生『八瀬童子 歴史と文化』(思文閣出版 2007)、山本ひろ子「中世日吉社の十禅師信仰と担い手集団―叡山・霊童・巫覡の三層構造をめぐって―」(『寺小屋語学文化研究所論叢』三号、寺小屋語学文化研究所、1984所収)、山本ひろ子「河原巻物の縁起的構想力をめぐって」(『物語・差別・天皇制』五月社 1985所収)、山本ひろ子『摩多羅神-我らいかなる縁ありて』(春秋社 2022)、嵯峨井建『日吉大社と山王権現』人文書院 1992)