4月18日、藤原定家(ふじわらのさだいえ/ていか 1162~1241)直筆の、『古今和歌集』の注釈書である『顕注密勘(けんちゅうみっかん)』が、京都・冷泉家から発見された。

 

定家といえば、肥痩のあるまるっこい文字が印象的。自身では「其字如鬼」(そのじおにのごとし)と認めていたけれど、今見ても古びていない。丸文字の祖先?とも思えてしまう。時代を超えた感性を持っていた人なのだろう。事実、その独特な筆跡(悪筆?)をこぞってまねて、江戸時代時代には〝定家流〟が一世を風靡する。

 

さて、定家といえば、『小倉百人一首』の撰者としてなじみ深いけれどわたしたちにとっては、後鳥羽天皇(1180~1239)の熊野詣に随行し苦労した貴人というイメージが強い。

 

熊野へ参らむと思へども、徒歩(かち)より参れば道遠し、すぐれて山きびし、馬(むま)にて参れば苦行ならず、空より参らむ羽(はね)たべ若王子(『梁塵秘抄』巻第二)

 

山本ひろ子先生初の単著は『変成譜―中世神仏習合の世界』(春秋社、1993。2018年には講談社学術文庫版として再刊)。第一章が「Ⅰ苦行と救済 中世熊野詣の宗教世界――浄土としての熊野へ」。

そこに定家の『熊野行幸日記』が紹介されている。それによると「三途川」と見立てられた岩田川を「下馬して腰まで水に浸かりながら」渡ったという。

阿弥陀の浄土と目された熊野本宮へ到達するには、貴賤を問わず川の瀬を渡る必要があった。それはなぜか――。

 

『熊野本宮大社絵図』(部分)

 

「岩田川で垢離をとり、幾度も川瀬を渡ることは、聖水の淨祓力による汚穢・罪障の浄化であり、そうして初めて、道者は浄土へと至る切符を手にすることができた。」(『変成譜』第一章)

 

ところで改めて『変成譜』を読み返すと、慈遍(じへん 生没年不詳)が著わした『天地神祇審鎮要記(てんちじんぎしんちんようき)』(1333年起稿)で、熊野を「冥界安楽土」「安養世界」、日吉山王を「日ノ少宮(ひのわかみや)」「寂光土」の「顕界」と、それぞれを〈冥(みょう)〉と〈顕(けん)〉という中世を読み解くための重要なキーワードである対立概念で捉えていることにも目が留まった。

 

ときどきこうして、冥界から顕界へ音信(いんしん)が届くのですよね。

 

図版:『熊野本宮大社絵図』熊野本宮大社所蔵、『変成譜』より転載

関連するURL:公益財団法人 冷泉家時雨亭文庫 (reizeike.jp)

定家の自筆、古今和歌集注釈書の原本 「顕注密勘」京都・冷泉家で:朝日新聞デジタル (asahi.com)

参考文献:小松茂美編『二玄社版 日本書道辞典』(二玄社、1987)、古谷稔『国宝 熊野懐紙』(講談社、1970)、山本ひろ子『変成譜』(講談社、2018)