19時からの「宵宮落とし」までには時間があるので、夕食を摂るためにJR比叡山坂本の駅前へなだらかな坂をくだってゆく。
途中、護因の房跡へ。
桜と屋台と人々でにぎわう大きな通り「日吉馬場(ひよしのばんば)」を右折すると、すっかりひとけもまばらになる。
今日から参加のMさんのために、昨日と同じく「滋賀院門跡(しがいんもんぜき)」や「慈眼堂(じげんどう)」そして「叡山文庫」の前を通って「榊の宮」へ。
慈眼堂に祀られている天海僧正(1536?-1643)は焼き討ちにあった比叡山の復興に尽力し、東の比叡山として江戸城の鬼門に東叡山・寛永寺を創建。江戸のグラウンドデザインをした傑物。東京にすまうわれわれにとっては大の恩人。
山本ひろ子先生の『異神』「摩多羅神」の章にも、天海による日光大変革が儀礼に及ぼした影響がそちこちにみえている。時々、足を延ばして天海が復興した川越の喜多院にでかけることもある。わたしの一番の関心事である羽黒山の中興の祖・天宥(てんゆう)別当とも関わりのある人物。激動の時代に自らの役目を十全に果たした人たち。
慈眼堂も奥の護因社と同様、ご廟所であるので時の流れが他所とは違う。静かな場所。秋は紅葉が美しく、今回は苔がきれいだった。
そして見落とせないのが榊の宮のこの提灯。
「これ、重要です!」と一枚撮影。
昨日は気づかなかったので、明日の為のものか。
「稚児参勤本(ちごさんきんもと)」とある。
辻護因を目指して、榊の宮の前の金剛河原町の通りをすすむ。
護因の房跡とされる辻護因・石動神社(いするぎじんじゃ)は、日吉大社と琵琶湖の丁度中間くらいだろうか、琵琶湖への見通しの良いところだった。
大通りを一本入っただけなのに、道が入り組んでいる。
あっちの大通りへ出たいと地元の人に訊ねても、説明が難しいから、駅前のバイパスまでこのままくだっていった方がよいと言われる。
この感じ、千葉の古い町を歩いたときとおなじだと思う。
複雑に入り組んで曲がりくねった道。
地元の人じゃないと出られない。
逆にいえば、一帯は余所者から守られているとも思う。
とはいえ、通りのコンビニにも立ち寄りたいので、このあたりかなと見当をつけて歩いてゆく。
――と、こじんまりとしているけれど地元の人々のために、必要なお宮がぎゅっと集まったような神社に出た。杉生神社(すぎおじんじゃ)。
境内の衝立脇に、すこし背の高い茶筒のようなものが下げてある。
数が記された籤を振り出すタイプのおみくじ。
見上げると軒先の板に数字と神歌が書かれている。
これがお告げ。
めいめい籤を引いて、何番だろう?といいながらメッセージを受け取る。
すこしゆくと大通りに出た。
宵宮落としに向かう人々の流れに逆行しながら駅を目指す。
途中でもう一社、占いに縁の神社を訪ねる。
「石占井神社(いしらいじんじゃ)」
ここでもお詣りの後、籤を引く。
わたしは4番半吉、TMさんと同じ。
十分(じゅうぶん)におもう心を九分(くぶ)にせよ
あとの一分(いちぶ)を神に任せて
いいお籤じゃないですか。
などと言いあいながら。
この旅、一分どころかだいぶお任せしています(つづく)。
○参考文献:山本ひろ子「〈物語〉のトポスと交通 日吉大社大宮縁起と説経『愛護の若』と河原巻物をつなぐもの」(赤坂憲雄、兵頭裕己、山本ひろ子編『物語・差別・天皇制』五月社、1985 所収)、山本ひろ子『異神』第二章「摩多羅神の姿態変換―修行・芸能・秘儀」付論「日光山の延年舞と常行堂」(ちくま学芸文庫、2003)、坂本の歴史を語る会、数野夘吉編・発行『坂本の歴史を探る 第一巻 坂本の神々〈その1〉 氏神さま32社について』、同『同 第二巻 坂本の神々〈その2〉 日吉大社40社について』