*私が25、26くらいの年の時かな~。そのころ週に3回くらい朝5時頃に起きて、水を飲んでからロードワーク(約12キロジョグ)に行っていました。帰ってシャワーを浴びてから仕事に行く日常。でもその日、朝起きて水を飲もうとキッチンに行くと、キッチン窓に付けてある防犯用の鉄格子に静電気の様なイナビカリがビリビリと走っていました。横長で1m程あるキッチン窓の鉄格子がまばらにポツポツと青白く光るのです。「何?」とは思いましたが、火事になるようでもないので、そのまま水を1杯飲みほして、リビングに行きロードワーク前のストレッチをしていた時、「ドン」と物凄い音がして体が少し浮きました。座ってストレッチをしていた私の目には一瞬部屋自体が大きく歪んだように見え、また「何?」と思った様な記憶があります。そして揺れがどんどん大きくなり、目の前を32インチのテレビがとなりの部屋へ転がっていきました。今まで経験したことが無かったので、もの凄いポルターガイスト現象がおきていて、強烈にヤバイ未知の怨霊か悪魔がやってきた、または宇宙人の侵略と思い戦う準備をして身構えていました。どれほど経ったか長い揺れと轟音の後、一瞬静かになり、普段競馬で使っていたラジオをつけましたが、つけても無反応(たぶん揺れで故障したのかな)、テレビも停電によりつかない。ポルターガイストか宇宙人の侵略と思っていた私は外に出るのも危ないと思いしばらく家の中にいました。そのうち外から「大丈夫か~」とあちこちから声がし始め、やっと大地震であることを理解しました。(そこでなぜか少しホットしました。普段寝る前に飲んで、こたつの上に置いたまま寝ている牛乳が、その日はたまたま飲まずに寝たので良かったとも思いました。後で思えば違うよね)少し落ち着き外に出ていつも差し入れを下さる大家のおばあちゃんの無事を確認し(部屋の取っ手に袋に入れた差し入れがぶらさがっている)、ある程度揺れが落ち着き30分40分経った頃であろうか家を少し早い目に出て歩いて職場の病院に向かいました。まだ6時代だったと思います。家の斜め前方には阪急電車が大きく脱線して路肩で傾いて止まっていました。家出るまで気づかなかった。病院が見えてくるにつれてえらい事になっているのを遠い目に実感しました。出入口から連なる患者さんの列が既に数百メートル伸びているではありませんか。家族が抱えて連れて来られている方も、何人か亡くなっている様に見えました。寒い中布団でくるんではおられますが、まったく動かれませんし、顔色に生気がまったくありませんでした。それでも寒い中外で並んでおられました。停電するとレントゲンの機械は使えません。病院には非常電源が装備されていましたが、基本全てを病棟維持と外来診察室に回すとの方針から、レントゲンの仕事が出来ませんでしたので、受付の仕事を手伝いました。(学生の頃から受付事務は手伝っていましたからね)既に院内は患者さんでごった返し、生きている人も亡くなっている人も診察の順番を待っておられました。まだ「トリアージ」の概念が一般に無かった頃です。受付では、もちもん保険証を持っておられない方も多く、怪我で問診票を書けない方も多く、受付はカルテに名前と住所、電話番号のみを記載し順番を待ってもらいました。そのうち、大量に在庫のあった「ガーゼ」が足りません「縫う糸」が足りません。非常電源の燃料が「あと30時間ほどしかもちません」と声が上がったので、私は同僚と2人、非常電源の燃料を買いに行きました。もちろん停電の影響で信号機が使えませんので、交差点はクラクションを鳴らしながら強引に割り込むか、前の車にピタリと付くしか前進出来ません。その時(その時代)はガソリンスタンドは空いていて約1週間分の燃料を買う事が出来ました。(みんな大震災の経験がありませんでしたからね)病院に帰って買った燃料を階段で屋上の機械室に何往復もして運ぶのはしんどく感じなませんでした。屋上で奥の方にある機械室が外界と隔離された感じがして少しホットしたのを覚えています。それから寝ずにいろんな仕事をしましたが書けない事ばかりです。応急処置で医師から心マと言われる事も多かったね・・・・・。付き添いの家族が代わられる事もありました。もちろん生きてもらうためにです。(昔は心マと言っていた)野戦病院がどんな感じか知りませんが廊下にも毛布を引いて寝て頂いたので、そう思った記憶もあります。1日目は朝に飲んだ水と夜2時くらいに飲んだ冷たい味噌汁のみ。次の日の朝、行政の手配で病院は電気が復活したので、レントゲン写真を撮り始めました。地震の次の日2日目は2人(大震災の時はほとんど出勤できないのですよ~)で200人くらい撮りました。(検査をしました)でも食事が無く食事する時間もなかったので、また夜遅くに味噌汁を飲んだのを覚えています。こんどは暖かかったので2杯飲みましたし冷たいおにぎりも残っていましたので1個食べました。(ほかに欲しい人がいるかもしれませんので1個のみ)その日の食事はそれだけと、途中透析室から頂いた蒸留水ものんだかな~。ほとんど飲まず食わずで動きましたが体がしんどくなる事は無く、1週間飲まず食わずで動いても大丈夫と感じていました。若かったし鍛えていたしね~。3日目くらいに、やっと食料が届き始め、久々に食べたバターロールが超高級料理の様に美味しかったです。その日は昼、夜と2食普通に食べる事が出来ました。生で食べたハムも最高でした。多分業者さんが入れてくれたか、個人の差し入れだと思います。また食料調達に行って下さっている方たちの話しを聞くと市の体育館に救援物資が山積みにされており「○○病院です」と言うと好きなだけ箱に詰めて持って帰れたそうで、車のバン一杯にしては、何往復もしていただたそうです。テレビを付けたまま検査をしていたので、瓦礫の中から助け出された子供2人を検査していると、テレビのテロップに「子供2人は助け出されましたが、両親は死亡が確認されました」と出たのをみて、子供の名前を再度確認し、完全に乾いていた涙が少し出そうになりながら検査をしたのを覚えています。1週間後やっと家に帰れて、冷蔵庫の牛乳を飲んだ瞬間、全身の力が抜け、どっと疲れが出たのも記憶として残っています。(1月だったし少し賞味期限が切れていても美味しく飲めました。僕の家の冷蔵庫は8度設定だったので、電気が使えなくて、冷蔵庫の外の方が更に温度が低かったのもあるでしょう)お風呂に入れたのはそれから更に1週間後。誰もお風呂に入れないのですから、それが普通でした。

 それから長い長い間、小学・中学のクランドなどにはテントがいっぱいに張り巡らされ、体育館と共に避難された方たちが、生きるための生活をされていました。当時の小学生、中学生達はそんな中でも必死に生き、学び、卒業し、また新学期を迎えました。それでもグランドや体育館があっても子供たちが使えないのです。大きな声が出せないのです。みんなが生きるためにです。そうならない事を祈っていますし、今被災して頑張っておられる方たちが、どうぞこの時を乗り越えられます様に。未来に沢山の幸せがやってきます様に。そして子供たちが被災しない事を祈っていますが、そうなっても最善の判断と共に強く生きてくれます様に。生きるために、生きてもらうために、生き残るために、少しでも自分の脳、知識、体、技術を鍛え強く生きて欲しいと思います!でも休み、休養も大事ですからね。よろしくね!