Buddy Holly & The Crickets "That'll Be The Day" on The Ed Sullivan Show

That’ll Be the Day

 

これまでにバディ・ホリーを更新した回は、下記です。

 

たらればは禁物だが、あの日あの時、バディ・ホリーが飛行機に乗っていなかったら…

 

僅か22歳で遭遇してしまった悲劇

 

バディ・ホリーがバス移動600kmを嫌い、2月の猛吹雪の中、

飛行機に乗り込んだことが運命の分かれ道となった。

 

チャールズ・ハーディン・ホリーCharles Hardin Holley1936年9月7日 - 1959年2月3日)は、バディ・ホリーBuddy Holly)の名で知られるアメリカ合衆国シンガーソングライター。1956年から1959年にかけてザ・クリケッツ英語版)を率い音楽活動を行っていた。1959年にリッチー・ヴァレンスザ・ビッグ・ボッパーと共に搭乗した小型機の墜落事故により死去。テックスメックスと呼ばれる独特のサウンドと黒縁メガネのルックスは後世のロック・グループに強い影響を与えた。1986年にロックの殿堂入り。

 

来歴[ソースを編集]

しゃくりあげるような裏声を用いて独特のアクセントをかもすヒーカップ唱法や、現代のロックにも通じるギターサウンドや軽快なビートが特徴である。[独自研究?]

 

ホリーのバンド、バディ・ホリー&ザ・クリケッツギター2本とベースドラムスバンドを編成し、後のバンドの基本的な形となった。

当時はロックンロールでもいわゆるビッグバンドスタイルが主流だったが、金がない彼らは、巡業では4人のバンドメンバーだけで演奏することが多く、結果的にそのスタイルが定着した。[要出典]バディとドラムのジェリー・アリソンだけで回ったこともある。

 

活動後期にはヴォーカルのダブルトラックストリングスの導入など、レコーディング・テクニックの可能性を追求し始めた。存命し続けていればさらなる音楽的発展が期待できたとも言われており、今尚その早すぎる死を惜しむ声は多い。[要出典]

 

ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第48位[3]

ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第13位。

2011年、「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」において第80位。

1957年[ソースを編集]

完璧なデモ録音[ソースを編集]

2月バディ・ノックスの「パーティー・ドール」が全米NO.1ヒットとなっていた。この曲は1956年4月にノ・ヴァ・ジャック・スタジオで録音されN.Yのルーレット・レコードから発売されたもの。これに触発されたバディらは新たなレコード会社との契約をルーレットに定める。2月25日ノ・ヴァ・ジャック・スタジオで「アイム・ルッキング・フォー・サムワン・トゥ・ラブ」「ザットル・ビー・ザ・デイ」2曲のデモを録音。バディはデッカで録音しながらお蔵入りとなっていた「ザトル〜」に絶対の自信を持っていた。この曲に新たなアレンジとバック・コーラスを加え録音。ラリー・ウェルボーンの回想。「『ザトル〜』には本当に長い時間をかけました。バック・コーラスと一緒に何度となくテイクを重ねそれをバディとノーマン・ペティが繰り返し確認してました」[4]

 

しかし「ザットル・ビー・ザ・デイ」のデモを聴いたルーレットは自社専属のバディ・ノックスやジミー・ブラウンと似たタイプのバディ・ホリーとの契約よりむしろ楽曲のほうに興味を示し、バディ・ノックスにこれらの曲を歌わせたいと考えた。当然ホリー側の希望とは折り合いがつかず交渉は流れた。見かねたノーマン・ペティはこれまでの人脈を使いバディらを援護する。まずコロンビアに打診するもミッチ・ミラーの回答は「No」。

だがコーラル・レコードのボブ・シールは「ザットル・ビー・ザ・デイ」を聴きその完成度の高さに驚き正式の録音は行わずデモ・テープをそのままレコード化したい意思があると言う[8]

違約[ソースを編集]

3月19日コーラル・レコードと契約。「ザットル・ビー・ザ・デイ」のレコード化にあたって大きな障害があった。デッカとの契約内容に「契約期間中録音した曲は最低5年間他社で再録音する事は出来ない」という条項がありこれに抵触した。苦肉の策として別グループの名義で「ザトル〜」を発売するというもの。新グループ命名にあたり百科事典から選んだ昆虫の名「クリケット(コオロギ)」を採用、ザ・クリケッツが誕生した[注釈 15]。最終的にソロ・アーティスト、バディ・ホリーをコーラルと、ザ・クリケッツをブランズウィックと別々に契約する変則的な形がとられた。奇しくもコーラル、ブランズウィック共にバディを一年で切り捨てたデッカの子会社であった。数か月後デッカは「ザトル〜」のヒットを受けこれに気付くが看過している[4]

全米NO.1ヒット[ソースを編集]

5月27日「ザットル・ビー・ザ・デイ/アイム・ルッキング・フォー・サムワン・トゥ・ラブ」発売[7]。初動は悪かったが徐々に売り上げを伸ばし8月全米 No.1ヒット(R&B2位)を記録[9]。9月には100万枚を突破、ミリオンセラーとなる。

 

音楽が死んだ日[ソースを編集]

詳細は「音楽が死んだ日」参照

2月2日、ツアー11日目のアイオワ州クレアレイクの「サーフボールルーム」[注釈 34]での公演を終えた一行は、次の公演先ミネソタ州ムーアヘッドへ向かう。バスによる365マイル(約600キロ)もの移動を嫌ったバディは、小型飛行機を借り、自分がツアーに誘ったジェニングスとオールサップも同乗させ、休養することを当日の公演前に決めていた。しかしジェニングスは体調不良のビッグ・ボッパーに気を遣って席を譲り、オールサップはヴァレンスとのコインの裏表の賭けに負けたためバスに搭乗した。2月3日午前0時55分、3人を乗せた飛行機は、猛吹雪の中メイソンシティ市営空港を離陸した[4]

2月3日UPI通信発表

「本日アイオア州クレアレイクでチャーター機の墜落事故発生。パイロットを含む乗員4名が全員死亡。乗客は全国トップクラスのロックンロール・スター、リッチー・バレンス、J.P(ザ・ビッグ・ボッパー)リチャードソン、バディ・ホリーの3名[4]。」

テレビで事故を知った妊娠2か月のマリア夫人はシ流産、愛する家族を同時に失う悲劇に見舞われる[注釈 35]。2月7日、ラボック・タバナクルバプテスト教会で葬儀が執り行われた。バディ・ホリー、享年わずか22歳であった。興行を主催したプロモート会社ゼネラル・アーティスト・コーポレーションは、事故の遠因となった過酷な日程を指摘されるもツアーを続行、ボビー・ヴィー(当時15歳)がバディの代役を行った。コーラルレコードは2月28日にLP『ザ・バディ・ホリー・ストーリー』をリリースし、故人を追悼。事故調査を行った民間航空委員会(CAB)は原因を「悪天候とパイロットのミスが重なり発生」と結論付けた[5]

 

「That’ll Be the Day / Buddy Holly & The Crickets」