Thin Lizzy - The Boys Are Back In Town (Official Music Video)

Thin Lizzy - Boys Are Back In Town (HD 1983)

 

かのヒューイ・ルイスが師としていたのが、シン・リジーのフィル・ライノットビックリマーク

 

フィル・ライノット、ヒューイ・ルイスの義理堅く、

後進のアーティストを援助する姿勢は尊敬に値する。

 

人生の師だアップ

 

アイリッシュ音楽を取り入れた音楽性、ツイン・リードスタイルのハード・ロックで人気を博し、

「アイルランドの英雄」と形容された同国の国民的グループとして知られる。

英国圏では、創始者フィル・ライノット没後30年以上が経過した現在でも、レジェンドとして大きな支持を得ている[2]

 

1969年フィル・ライノット(ベース&ボーカル、作詞・作曲 元スキッド・ロウ)を中心に、フィルの学生時代からのバンド仲間であるドラムスのブライアン・ダウニー、元ゼムのギタリスト、エリック・ベルとともにダブリンで結成(当初キーボーディストもいたがまもなく脱退)[3]。ただし、バンドの初代マネージャーであるテリー・オニールは、シン・リジィが正式に結成したのは1970年であったとしている[4]。当初は「Orphanage(孤児院)」というグループ名で、パブなどで演奏を開始する。ある日、ジョン・メイオール・ブルース・ブレイカーズのセカンド・アルバム『ブルースブレイカーズ・ジョン・メイオール・ウィズ・エリック・クラプトン』のジャケットで、エリック・クラプトンが読んでいる雑誌『Beano』に興味を持ち(ジャケット写真)、買って読んでみると、そこに掲載されていた漫画の中に「Tin-Lizzie(ブリキのエリザベス)」という名のロボットが登場していたのを見つけ、ライノットたちはその名を拝借し、アイルランド人が発音しやすいように綴りを変え、バンド名を「シン・リジィ (Thin Lizzy)」とした。

 

1971年4月、ファースト・アルバム『シン・リジィ』(Thin Lizzy) をリリースする。初期はアイリッシュ・フォークとロックの融合を軸にしたサイケデリック・サウンドを展開、同年ロンドンでの初ライブを行う。8月、印象的な詞の作品「ダブリン」(Dublin) を収録した4曲入りEP『ニュー・ディ』(New Day) を発表。

 

1972年3月、『ブルー・オーファン』(SHADES OF A BLUE ORPHANAGE) 発表。フィル・ライノットの書く美しい詞が充実した佳作だが、セールスにはつながらなかった。バンドは次第にステージ・パフォーマンスを含め、ロック・バンドへと様変わりし、ライノットの詞もダンディズムを押し出したものへと変貌していく。

同年トラディショナルなアイリッシュ・フォーク・ミュージックをロック風にアレンジした「ウィスキー・イン・ザ・ジャー」(Whiskey In The Jar) がシングル・カットされ、アイルランドで1位を獲得、英国国内でもスマッシュヒットとなる。善くも悪くもこのヒットによりショウ・ビジネスの中で生き残ることを選択させられる。BBCテレビの長寿音楽番組Top Of The Popsにも初登場。

 

1976年3月、代表作ともいわれる『脱獄』(Jailbreak) を発表。全世界で200万枚を超えるセールスを記録する。3月より英国ツアー、4月にはシングル「ヤツらは町へ」(The Boys Are Back in Town) をリリース。

さらに5月には全米ツアー(REOスピードワゴンクイーンスティクスジャーニーラッシュリッチー・ブラックモアズ・レインボーらのサポート・アクト)、7月には再びイギリスで追加公演とハードスケジュールをこなす。さらに同年8月、コンセプト・アルバム色の強い『サギ師ジョニー』(Johnny The Fox)を制作、10月にリリースする。これらの精力的な活動の結果、シン・リジィはスタジオ・プロデュース作品/ライブ・パフォーマンスのいずれでも非常に高い評価を得る。11月よりプロモーション・ツアー。この時期の熱狂的なライブは後に『ライヴ・アンド・デンジャラス』としてリリースされる。

 

1979年4月、トニー・ヴィスコンティ・プロデュースによるアルバム『ブラック・ローズ』(Black Rose a Rock Legend)を発表。タイトル曲はケルト・ミュージックと独自の叙事詩を融合した曲であり、シン・リジィの集大成ともいえる曲である。4月より全英ツアー、9月にはジャーニーAC/DCドゥービー・ブラザーズらとの全米ツアーを行う。

このツアーの最中に、バンド内でのトラブルからゲイリー・ムーアが失踪。

急遽ヴィサージウルトラヴォックスミッジ・ユーロを呼びスケジュールを消化、既に日程を組まれていた日本公演にもメンバーとして来日させている。

 

斜陽〜フィル・ライノット死去(1980年 - 1986年)[ソースを編集]

1980年、バンド存続のため、ピーター・グリーンピンク・フロイドなどのセッション・ギタリストをしていたスノウィー・ホワイトを参加させ、先行シングル「ヤツらはレディ・キラー」(Killer on the Loose) をリリース。しかし、続くフルアルバム『チャイナタウン』(Chinatown)や、キーボーディストのダーレン・ウォートンを加えて制作した1981年の『反逆者』(Renegade)ではバンドの方向性を見失い、1982年、自らのライフ・スタイルを揶揄したシングル Trouble Boys/Memory Pain が不発に終わると、まもなくスノウィー・ホワイトが脱退する。

 

バンドの人気の低下と、スコット・ゴーハムが自身のリハビリテーションを望んだことがきっかけとなり、メンバーはライノットにバンドの解散を提案、さらに彼らの所属先のレーベルもフィル・ライノットのソロ活動のみを良しとする回答を出していた。

 

しかし、アイアン・メイデンがステージで「虐殺」(Massacre 『サギ師ジョニー』に収録)をカバーしてオマージュを捧げたことや、欧州でのハードロック・マーケットの拡大、

当時のNWOBHMブームなどに新たな光明を見出したフィル・ライノットは、ソロとして独立しようとしていた元タイガース・オブ・パンタンのギタリスト、ジョン・サイクスをグループに加入させる。

 

1983年、サイクスを迎えて制作された『サンダー・アンド・ライトニング』(Thunder & Lightning) は、サイクスとスコット・ゴーハムのギターが激突する、最後のスタジオ・アルバムとなった。

 

3月にはイギリス最終公演。9日から12日までの4日間、ロンドンハマースミス・アポロ(オデオン)では歴代メンバーをピック・アップしてレコーディングを敢行、不本意ながらも契約最終作としてライブ盤『ラスト・ライヴ』(LIVE/LIFE) をリリースした。同年4月にアイルランド公演、日本での最終公演は5月17日の中野サンプラザ

 

解散後の1985年頃には、ブームタウン・ラッツ時代からシン・リジィの前座に起用されるなどライノットに恩義のあるボブ・ゲルドフの依頼により、ライヴ・エイドでの一日限りの再結成に向けての話し合いも行われていた。

 

1986年1月4日、フィル・ライノットヘロインの過剰摂取による内臓疾患、敗血症により死亡。36歳。

 

同年5月、アイルランドの失業者支援コンサート Self Aid において、シン・リジィは一夜のみの再結成ライブを行った。メンバーはゲイリー・ムーア、ブライアン・ダウニー、スコット・ゴーハム、ボブ・デイズリー(元オジー・オズボーン・バンド)。

 

トリビュート期(1996年 - 現在)[ソースを編集]

1996年からジョン・サイクス、スコット・ゴーハムが核となり、シン・リジィの名前で活動を開始する。2004年にはディープ・パープルのサポートとして全米ツアーに参加。

この間にはフィルへの追悼盤や新たなベスト盤が多く発売されている。

 

2005年8月20日、フィル・ライノットのアイルランドへの功績を記念してダブリン市内にブロンズ像が建立され、式典ではゲイリー・ムーアを中心に過去のメンバーが集結してシン・リジィの曲が演奏された。

 

2006年3月から、英国・欧州でフィル・ライノットの没後20周年を記念したツアー "20/20" が行われた。このツアーのメンバーはサイクスとゴーハムの他に、マイケル・リー(元ロバート・プラント・バンド)とマルコ・メンドーサブルー・マーダー)。

 

2010年5月、ゴーハム、ダウニーを中心に再結成。その他のメンバーはダレン・ウォートン(キーボード)、ヴィヴィアン・キャンベル(ギター)、マルコ・メンドーサ(ベース)、リッキー・ウォリック(ジ・オールマイティーのギター・ボーカル)。

その後ダウニー、ウォートン、キャンベルが脱退。残されたゴーハムはデイモン・ジョンソン(ギター)とジミー・デグラッソ(ドラム)を加え、2012年よりブラック・スター・ライダーズ(Black Star Riders)名義で活動しているが、機会があればシン・リジィ名義も使用するとしている[6]

 

 

この時期ヒューイをはじめとするクローバーの面々はアイルランドダブリン出身でイギリスでも高い人気を得ていたシン・リジィの前座として起用され、その縁でリジィのアルバム『ライヴ・アンド・デンジャラス』にヒューイがブルースハープ奏者として参加している。

ヒューイはリジィのリーダーであったフィル・ライノットから多くのことを学び、自らの糧とする。後述するようにヒューイは多くの才能の発掘・人気向上に力を貸すことになるが、その姿勢は駆け出しのU2ブームタウン・ラッツなどに力を貸したライノットの姿勢に重なるところがある。

 

 

 

「The Boys Are Back In Town / Thin Lizzy」