The Way It Is
Bruce Hornsby - The Way It Is - 7/24/1999 - Woodstock 99 West Stage (Official)
1987年に親父がアメリカ出張時に、このALBUMを現地で買ってきて欲しいと おねだりました。
しっかりと買ってきてくれたのが、とても嬉しかったことを覚えています。
ヒューイ・ルイスに見いだされて活躍し始めたブルース・ホーンズビーのピアノと歌詞は哀愁を感じるメロディーです。
ブルース・ホーンズビー(Bruce Hornsby, 1954年11月23日 - )は、アメリカ・バージニア州ウィリアムズバーグ出身のピアノ・アコーディオン奏者およびシンガーソングライターである。
自作自演の歌唱や楽曲提供はもとより、ライブにおいては自然発生的・創造的なパフォーマンスで知られ、クラシック、ジャズ、ブルーグラス、フォーク、モータウン、ロック、ブルースなどのジャンルを切れ目のない即興演奏で描き出す。
その楽曲は業界の賞でもたびたび評価されており、
グラミー賞では1987年にブルース・ホーンズビー・アンド・ザ・レインジとして最優秀新人賞、1990年に最優秀ブルーグラスレコーディング賞、そして1993年に最優秀ポップ・インストゥルメンタル賞を受賞している。
ホーンズビーはまた、ソロでのアルバムやライブ活動、自身のライブバンドであるブルース・ホーンズビー・アンド・ザ・ノイズメイカーズ、リッキー・スキャッグスとのブルーグラス・プロジェクト、ジャズトリオのザ・ブルース・ホーンズビー・トリオ、さらにスタジオ・ミュージシャンとして多くのアーティストと共演している。かつてはグレイトフル・デッドとも共同作業を行った。
経歴[ソースを編集]
ザ・レインジ時代[ソースを編集]
1984年、ホーンズビーはブルース・ホーンズビー・アンド・ザ・レインジ(Bruce Hornsby and the Range, 以下「ザ・レインジ」)を結成後、後に彼のプロデュースを手掛けたり、
彼の楽曲を取り上げたりすることになるヒューイ・ルイスと出会い、それが縁で、翌1985年にRCAレコードと契約した。
ホーンズビー以外のバンド・メンバーは、デイヴィッド・マンスフィールド(ギター、マンドリン、ヴァイオリン)、ジョージ・マリネッリ(George Marinelli、ギター、コーラス)、ジョー・プエルタ(ベース、コーラス)、ジョン・モロ(ドラムス)。
ホーンズビーのレコーディング・キャリアは、彼の楽曲の中で最大のヒットとなった「ザ・ウェイ・イット・イズ」で始まった。この曲は1986年のアメリカ音楽チャートでトップに立った[8]。疾走感がありながらも内省的なピアノリフと That's just the way it is / Some things will never change / That's just the way it is / But don't you believe them という歌詞の繰り返しが受けたこの曲は、公民権運動と根強い人種差別の一面を描き出した[9]。また、この曲は一面で、1980年代初頭から中盤にかけての経済不況に対する不満をかこっていたアメリカの大衆を刺激するものでもあった。
その後この曲は、2パック、E-40やメイスなど、6組以上のラップ・アーティストにサンプリングされている[8]。
このシングルの世界的な成功を受けて、アルバム『ザ・ウェイ・イット・イズ』はマルチプラチナアルバムとなり[10]、さらに収録曲の「マンドリン・レイン」がトップ5に入るヒットとなった[8]ほか、「エヴリ・リトル・キス」 ("Every Little Kiss") も好評だった[8]。
この他の収録曲も、一部で“バージニア・サウンド”と呼ばれるようになる、南部の味わいを感じさせるロック・ジャズ・ブルーグラスのミックスというスタイルを確立するのに貢献した[11]。
この勢いを駆ったザ・レインジは1987年、シンプリー・レッドなどを抑えてグラミー賞最優秀新人賞を獲得した。
ザ・レインジのサウンドは、他のアーティストと比べて幾分特徴的であった。一つには、ホーンズビーのピアノソロにおけるシンコペーションの多用。また、ホーンズビーのピアノは1980年代のポップスで一般的だったものに比べてより明るいサウンドであり、さらに、「ザ・ショー・ゴーズ・オン」("The Show Goes On")、「ザ・ロード・ノット・テイクン」("The Road Not Taken") といった曲で、ホーンズビーのソロの間シンセサイザーをバックグラウンドで鳴らし続けるという点のほか、ジョン・モロのドラムがしばしば曲全体を通してループしていたという点がある。これは典型的なダブルタイム・ビートであり、ホーンズビーや他のバンド・メンバーがさらに多くのソロを入れる助けになった。
ザ・レインジの2枚目のアルバム『シーンズ・フロム・ザ・サウスサイド』は1988年に発表された。このアルバムからマンスフィールドに代わってピーター・ハリス (Peter Harris) が加入した。本作からは「ルック・アウト・エニー・ウィンドウ」("Look Out Any Window") や「ザ・ヴァレー・ロード」("The Valley Road") といった、“さらに広がりのある”アレンジによってホーンズビーのピアノソロが“さらに表現豊か”になった[12][13]と多くの批評家に賞賛されたヒット曲が生まれた。
ホーンズビーの友人であるヒューイ・ルイスに提供し、ナンバーワン・ヒットになった楽曲「ジェイコブズ・ラダー」[14]のセルフカヴァーも収録されている。
『シーンズ・フロム・ザ・サウスサイド』はアルバムとしては成功し、再び「アメリカ的なもの」や「小さな町」への郷愁をリスナーに呼び起こした[13]が、この後シングル中心になっていった音楽市場において、本作はザ・レインジによる最後のヒット・アルバムとなった[12]。
1988年、ホーンズビーはグレイトフル・デッド(以下「デッド」)と初めてステージで共演を果たした。これ以後、ザ・レインジの解散までホーンズビーはデッドと共演を続けていくことになる[15]。当初はゲストとしての共演だったが、数年後にはツアーのレギュラーメンバーとなった。1980年代後半から1990年代初頭にかけて、ホーンズビーはデッドのプロデューサーおよびサイドメンバーの役割を務め、また、ホーンズビー自身のアイドルであったレオン・ラッセル[6]の復帰第1弾アルバムもプロデュースしている。
1989年、ホーンズビーはドン・ヘンリーのヒット曲「エンド・オブ・ジ・イノセンス」をヘンリーと共作し、ピアノも担当した(サックスはウェイン・ショーターが担当)。1991年にはボニー・レイットのヒット曲「夕映えの恋人たち」のピアノを担当した。その後もホーンズビーはこの2曲を自らのコンサートで披露している。この時期は、他にもボブ・ディラン、ロビー・ロバートソン、クロスビー、スティルス&ナッシュやスクイーズのアルバムにゲスト参加した[12]。
この時代、ホーンズビーは次第にジャズやブルーグラスの要素を自らの音楽に取り入れるようになり、まずライブ・パフォーマンスで、後にスタジオでのレコーディングでも使うようになった[8]。1989年、テルライド・ブルーグラス・フェスティバルに初出演。
さらに、自身のヒット曲「ザ・ヴァレー・ロード」をカントリーバンドのニッティ・グリッティ・ダート・バンドと共に再演し、この曲は翌1990年のグラミー賞最優秀ブルーグラスレコーディング賞を受賞した。
1990年、ザ・レインジのアルバム『ナイト・オン・ザ・タウン』を発表。この作品ではウェイン・ショーターやチャーリー・ヘイデンといったジャズ・ミュージシャンや、ブルーグラスの先駆者であるベラ・フレックと共演した。ホーンズビーのスタイルが変化してきたことが明らかに分かるアルバムで、ジェリー・ガルシアのギターを前面に押し出すなどロック色が強くなっており、
とりわけ、ヒット・シングル「アクロス・ザ・リバー」("Across the River") などでこれが顕著であった[16]。コンサートでは、ザ・レインジは1曲の演奏時間を長くし、さらに多くの“自由な音楽的やり取り”[8]を取り入れるようになった。
このアルバムは批評家にも受けがよく、プロデュース、政治との関連性、凝り固まったポップミュージックを脱してジャズやブルーグラスを取り入れた[16]ホーンズビーの姿勢が評価された。
しかしながら、最終的にはザ・レインジの核にある「ロックバンド」的サウンドがホーンズビーの本当にやりたかったことを妨げた形になり、1991年に行なった3週間のツアーを最後にホーンズビーはバンドを解散し、新たな段階へ進むことになった[8]。バンドメンバーは各自の音楽キャリアを求めてそれぞれの道に進んだ。ドラムのジョン・モロは、その後も数年間ホーンズビーと共演を続けたが、アザー・ワンズにホーンズビーと参加した後、フィル・レッシュのバンドのドラマーとなり、ホーンズビーとの共同作業は終了した。
「The Way It Is / Bruce Hornsby & The Range」