Whitney Houston - Saving All My Love For You (Official HD Video)

Whitney Houston - Saving All My Love for You (Live on Wogan 1985)

 

これまでにホイットニー・ヒューストンを更新した回は、下記です。

 

曲を出す度に、常に全米NO.1ヒットだったホイットニー・ヒューストン

 

とは言え、スターであるがゆえの苦悩があった。

 

結局は、夫とのトラブル

離婚

 

そして、薬に走ってしまった。

 

2012年 グラミー賞 前日の2月11日の出来事だった。

 

48歳

あまりにも早かった。

 

ホイットニー・エリザベス・ヒューストン: Whitney Elizabeth Houston、1963年8月9日 - 2012年2月11日)は、アメリカ合衆国歌手女優・元ファッションモデル

人物[ソースを編集]

著名なソウルシンガーを親戚に持つ。11歳の時にジュニア・ゴスペル・クワイアに入り、ニュージャージー教会で歌い始めた。ニューヨーク市地域のナイトクラブで、母親とパフォーマンスをしていたところをアリスタ・レコードの社長クライヴ・デイヴィスにスカウトされた。

 

1985年、デビュー・アルバム『そよ風の贈りもの』は大ヒットとなった。1987年に発表した2枚目のスタジオ・アルバム『ホイットニーII〜すてきなSomebody』 (Whitney_(album)は、ビルボード200チャートに初登場1位を記録する(女性歌手では初)。1992年には、初主演映画『ボディガード』が公開される。映画のサウンドトラックは1994年のグラミー賞最優秀アルバム賞を受賞するなど、高い評価を受け、アルバムからのリカット・シングル「オールウェイズ・ラヴ・ユー」は自身最大のヒットとなった。

ホイットニーは世界で最も売れている歌手の1人である。累計セールスはアルバムが1億4,000万枚以上、シングルは5,000万枚以上で[1][2]、アメリカ合衆国のRIAAより「アメリカ合衆国で(女性アーティスト史上)4番目に売れている歌手」と評価されている[3]

 

また、音楽雑誌「ローリング・ストーン」によりその声を「強力で鋭いポップ・ゴスペル」といわれ、オール・タイムの素晴らしい歌手100人の内の1人であると評価された[4][5][6][7]

ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー』において第34位[8]

Q』誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガーにおいて第98位[9]

 

デビュー・絶頂期[ソースを編集]

10代の頃にモデルとして活動したり、チャカ・カーンらのバックボーカルを務めるなどして頭角を現した。1983年に敏腕プロデューサーのクライヴ・デイヴィスの目にとまり、アリスタ・レコードと契約した。翌年にはテディ・ペンダーグラスとのデュエット曲がヒットした。

 

1985年にデビューアルバム『そよ風の贈りもの』をリリースし、いきなり爆発的人気を獲得した。2作目のシングル「すべてをあなたに」から7曲連続で全米シングルチャート1位の記録を打ち立てた。この記録はビートルズの6曲連続を超える新記録であり、2012年現在いまだに破られていない。

 

1987年の2枚目のアルバム『ホイットニーII〜すてきなSomebody』は、日本のオリコン洋楽アルバムチャートでも1987年6月15日付から通算11週1位を獲得した[14]

 

1991年第25回スーパーボウルで試合前に国歌を斉唱。この斉唱は史上最高の国歌斉唱と絶賛された[15][16][17]。後にシングルとしても発売され、またその10年後にアメリカ同時多発テロ事件のチャリティとして再リリースされ、ヒットしている。

 

1992年ケビン・コスナーと共演した初主演映画『ボディガード』が公開され、成功を収めた。彼女の新曲6曲を収録したサウンドトラックは全世界で4,200万枚を売り上げ、日本でも当時洋楽史上最高の280万枚[18]を売り上げる驚異的なヒットとなった。カントリー歌手、ドリー・パートンのヒット曲をカバーした主題歌、「オールウェイズ・ラヴ・ユー」は全米シングルチャートで14週連続No.1を記録する自身最大のヒット曲になった。

 

同年R&B歌手、ボビー・ブラウンと結婚。翌年には一人娘ボビー・クリスティーナ・ブラウン(1993年3月4日 – 2015年7月26日)を出産した。

 

2000年ベスト・アルバムザ・グレイテスト・ヒッツ』を発売したが、時期を同じくしてハワイの空港で大麻所持で拘束された。激しく体重の落ちた姿が度々見られるなど健康を害し、その後テレビ番組で大麻やコカイン等の常用を告白している。夫が暴行などで度々逮捕され、離婚説が幾度も報じられるなどのトラブルもあり、週刊誌やテレビ等で私生活を取上げられる事が多かった。

 

2004年から翌年にかけてリハビリ生活を続けた。2006年9月13日、ボビー・ブラウンとの結婚生活に終止符を打つべく離婚申請書を裁判所に提出し、同年10月に離婚が成立した。

 

2008年6月には年末にクライヴ・デイヴィスのプロデュースの元、ニュー・アルバムをリリースすると発表した[19]。しかし、この発売は延期され、翌2009年6月になって同年9月1日にリリースすることが報じられた[20]。実際には8月31日(米国)にアルバム『アイ・ルック・トゥ・ユー英語版)』が発売され、1週目で30万枚以上を売り上げビルボード200の初登場1位を獲得、復活を果たした。2010年2月の東京公演を皮切りに11年ぶりのワールドツアーも実施した。 しかし英国でのコンサートで息が切れたり、パリ公演では呼吸器の感染症で入院するなど、トラブルが相次ぎ、2011年7月にアルコール・薬物依存からの復帰プログラムを再開[21] し、2012年1月には破産寸前であると報じられる[22] など、さまざまな問題が続いていた。

 

2012年2月11日に、カリフォルニア州ビバリーヒルズにあるビバリーヒルトン・ホテル英語版)4階客室の浴槽の中に倒れていたところを発見され、救急隊が20分間にわたって蘇生処置を施したが、同日午後3時55分(現地時間)に死亡が確認された[24][25]。48歳没。ホイットニーは、グラミー賞の授賞式を翌日に控え、クライヴ・デイヴィスが主催する恒例の前夜パーティに参加するために、同ホテルに滞在していた[26]

 

2012年3月22日、ロサンゼルス郡検視局は会見を開き、死因は不慮の溺死であり、遺体からコカインが検出されていることから、入浴中にコカインの影響で心臓発作が起こったため、浴槽に沈んだ可能性が高いという検視結果を発表した[27][28]。検死報告書によると、歯が11本失われ、眉毛の大部分が抜け落ちていた[29]

 

2019年にはカイゴとのコラボレーション・シングル『ハイヤー・ラブ』が発表[30]、元は『アイム・ユア・ベイビー・トゥナイト』の日本盤ボーナストラックとして発表されていたもので、今回カイゴによって再構築された新たなヴァージョンとなる。イギリスでは2位を記録するヒットとなった。

 

2022年、彼女の生涯を描いた映画『ホイットニー・ヒューストン I WANNA DANCE WITH SOMEBODY』が制作され、ナオミ・アッキーがヒューストンを演じた。

 

「Saving All My Love For You / Whitney Houston」