Bo Diddley "Bo Diddley" on The Ed Sullivan Show

Bo Diddley - Bo Diddley [stereo]

 

これまでにボ・ディドリーを更新した回は、下記です。

 

残念ながら創世記の音楽である為、

 

ギターのチューニングはズレているし、

 

ドラムも音ズレしているフレーズもある爆弾

 

しかし、創世記に この音楽を演奏していたことに意味があるアップアップ

 

ボ・ディドリーBo Diddley, 本名:エラス・O・B・マクダニエルEllas O.B. McDaniel1928年12月30日 - 2008年6月2日)は、アメリカロックンロールシンガーギタリスト

ボ・ディドリー・ビートと称される強力なリズムを基調とした彼の独特のサウンドは、ブルースロックンロールの掛け橋となり、チャック・ベリーリトル・リチャードらとともにロックンロールの生みの親のひとりとして知られるようになった。

ローリング・ストーンズU2、彼の名を「苗字」として冠したBO GUMBOSなど、数多くのロック・ミュージシャンが彼から影響を受けている。

 

ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第20位。

「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」において2003年は第37位、2011年の改訂版では第27位[1]

キャリア[ソースを編集]

1928年ミシシッピ州マコムに生まれる。出生時の名前はエラス・オサ・ベイツであったが、生後まもなく、実母のいとこガシー・マクダニエルに養子に出された。このため、義理の母親の姓を名乗るようになる。1930年代半ばに、家族とともにイリノイ州シカゴに移住。

最初に手にした楽器はヴァイオリンであった。12歳のときに姉のルシールからギターをプレゼントされ、ギターも練習するようになった。 彼の芸名となった「ボ・ディドリー」はこの頃生まれたものである[注 1]

 

ジョン・リー・フッカーを耳にして感銘を受けたディドリーは、ヴァイオリンを止めてギターに専念するようになっていった。10代の頃からギターを手に路上で演奏活動を展開し、1950年代に入ると、マラカスのジェローム・グリーン、ハーモニカのビリー・ボーイ・アーノルドらとプレイするようになる。

そして1955年チェス・レコード傘下のチェッカー・レコードと契約し、デビュー・シングル "Bo Diddley" b/w "I'm A Man" をリリースした。これがR&Bチャートのトップに昇りつめる大ヒットを記録し、一躍スターの地位を獲得する。

同年、黒人アーティストとしては初めて『エド・サリヴァン・ショー』への出演を果たすが、番組側から指定された曲の演奏を断り、自らのレパートリーを演奏したことから、以後出演禁止となってしまった。

 

以後、デビュー曲を越えるヒットは生まれなかったものの、"Crackin Up"1959年, R&Bチャート14位)、"Road Runner"1960年, 同20位)、"You Can't Judge A Book By The Cover"1962年, 同21位)などのヒットを飛ばした。

 

1967年"Ooh Baby"(R&Bチャート17位)以降はヒットこそなかったものの、演奏活動を続けた。1987年にはロックの殿堂入りを果たした。

 

来日は、1988年ロン・ウッドとのツアー、1992年ジャパン・ブルース・カーニバル1997年の単独ツアー、2001年ブルーノート東京公演がある。

 

1998年には映画ブルース・ブラザース2000』に出演している。

 

80歳を目前に控えても精力的にツアーをこなしていたが、2007年5月13日、公演先のアイオワ州カウンシルブラフスで、脳卒中のため入院した。5月末には退院したものの、後遺症を改善するためにリハビリ・センターに入所した。

 

2008年6月2日フロリダ州アーチャーの自宅にて心不全のため死去した[2]。79歳だった。

 

「Bo Diddley / Bo Diddley」