Buffalo Springfield - For What It's Worth 1967

Buffalo Springfield - For What It's Worth & Mr. Soul - Medley

 

なかなか渋い音譜

 

薬物不法所持で僅か2年で解散したのが残念だ!!

 

2010年に42年振りに再結成したが、

こちらも、2年で解散爆弾

 

バッファロー・スプリングフィールド英語Buffalo Springfield)は、1966年4月に結成されたアメリカロックバンドである。

様々な音楽的要素を内包しながらも、そして、メンバーたちの際立った個性がぶつかり合いながらも、密度の高い、調和のとれた良質の作品を生んだ。その一方でメンバー間での対立(特にスティーヴン・スティルスニール・ヤングの対立)が絶えず、1968年5月に解散した。

 

活動期間は約2年と短く、大きな商業的成功も得られなかったが、1970年代以降の音楽シーンの第一線で活躍する人材を輩出した。1997年ロックの殿堂入りを果たした。

キャリア[ソースを編集]

結成まで[ソースを編集]

1965年、オウ・ゴー・ゴー・シンガーズ(The Au Go Go Singers)のメンバーとしてカナダオンタリオ州を訪れていたスティーヴン・スティルスリッチー・フューレイの2人が、当地でギタリストのニール・ヤングに出会う[2]。この出会いが後のグループ結成につながる。

 

オウ・ゴー・ゴー・シンガーズ解散後、スティルスはカリフォルニアに拠点を移し、セッション活動で糊口をしのぐ合間にオーディションを受けるなどして細々と活動を続けた。プロデューサーのバリー・フリードマンから紹介された仕事をこなすためにバンドが必要になり、オウ・ゴー・ゴー・シンガーズで共に活動したフューレイをカリフォルニアに呼ぶ。これでスティルスとフューレイが揃う。

 

ヤングは1966年前半、トロントブルース・パーマーに会い、彼が所属していたバンド“マイナー・バーズ”(The Mynah Birds)のギタリストに収まる。リーダーはリッキー・ジェイムズ・マシューズ(後のリック・ジェームス(Rick James))で、マイナー・バーズはモータウンと契約したが、リッキーが脱走兵だったことから軍隊に連れ戻され、バンドは消滅した。ヤングとパーマーはスティルスとの再会を望み、ロサンゼルスに向かうことを決めた。

 

デビュー[ソースを編集]

1966年4月11日にハリウッドナイトクラブ「トルバドール」でデビュー。数日後にはザ・ディラーズ、バーズの前座としてカリフォルニアを短期間ツアーした。

 

ツアー終了後、バーズのクリス・ヒルマンサンセット・ストリップの有名なナイトクラブ「ウィスキー・ア・ゴーゴー」のオーナーに強く働き掛け、バッファロー・スプリングフィールドは1966年6月から2カ月間、ウィスキー・ア・ゴーゴーのレギュラーとして採用された。この間の演奏が評判を呼び、多くのレコード会社が彼らに興味を示した。彼らは最終的にアトランティックレコードとの契約を獲得し、アルバムのレコーディングに取り掛かかる。プロデューサーのチャーリー・グリーンとブライアン・ストーン(ともにソニー&シェールのマネージャーでもあった)はヤングの声を気に入らず、ヤングが手掛けた作品の大半を、フューレイにリード・ボーカルを割り当てた。

 

アルバムのリリースに先立ち、ファースト・シングル「クランシーは歌わない」(NOWADAYS CLANCY CAN'T EVEN SING)をリリースしたが、ロサンゼルスでトップ25まで上昇した以外に大した反響はなかった。1966年12月、ファースト・シングルも含むデビュー・アルバム『バッファロー・スプリングフィールド』をアトランティック傘下のアトコからリリース。

 

1966年11月、LAのナイトクラブ、パンドラ・ボックスの閉鎖に抗議してサンセット・ストリップに集まった若者の群衆に対し、警察が治安目的で働いた暴力的行為を目撃したスティルスは、彼のエポック・メイキングとなる曲フォー・ホワット・イッツ・ワース」を書いた。バンドはすぐにハロウィンの夜のウィスキー・ア・ゴーゴーのステージでこの曲を演奏、数日後にはレコーディングされ、ロサンゼルスのラジオ局KHJから流された。この曲は翌年の3月までにはトップ10入りし、アトコは ファースト・アルバム収録の「ベイビー・ドント・スコールド・ミー」(BABY DON'T SCOLD ME)をこの曲と入れ替え、ファースト・アルバムを再リリースした。「フォー・ホワット・イッツ・ワース」は最終的に100万枚を売り、ゴールドディスクに輝いた[3]

 

1967年1月、グループはニューヨークに遠征。ドアーズも出演するクラブ、オンディーヌに出演する。しかし、このツアーでパーマーがマリファナ所持で逮捕され、カナダに強制送還される事態が起きる。レコーディングやライブのためにアメリカの両岸を行き来していたバンドには、多くのベーシストがセッション・メンバーとして参加し、その中にはマザーズ・オブ・インヴェンションのジム・フィールダーもいた。テレビ出演の際などは、あらかじめ録音しておいた音源を流し、ロード・マネージャーがベースを抱えて当て振りをして乗り切った。

 

こうした状況の中、次のアルバム制作は難航した。バンドはプロデューサーのグリーン、ストーンと対立し、また、ヤングとスティルスも何かにつけて口論した。2人はそれぞれ自分がアルバムをプロデュースすることを主張した。ファースト・アルバムでは曲を提供しなかったフューレイはヤングと同じ数の曲をこのセカンド・アルバムのために書いた。

 

6月初めにパーマーがグループに復帰、モントレー・ポップ・フェスティバルに出演する。しかしこの時ヤングは一時的に脱退しており、モントレーのステージにはいなかった(グループはダグ・ヘイスティングス、デヴィッド・クロスビーらをゲストに迎えてステージを務めた)。

 

結局ヤングは10月に復帰。アトランティックの社長アーメット・アーティガンの働きかけにより、これまでプロデュースを行っていたチャールズ・グリーンとブライアン・ストーンは降板、アーティガン自身がメインプロデューサーを務めた。バンドはアルバムの仕上げに集中し、1967年11月、セカンド・アルバム『バッファロー・スプリングフィールド・アゲイン』のリリースに漕ぎ着けた。

 

『バッファロー・スプリングフィールド・アゲイン』はグループというより個々のメンバーの仕事の集合としてバンドの最高傑作であると考えられている。アルバムの反応もよく、ビーチボーイズに同行するツアーで全米を回り、バンドの状況は上向いているように見えた。

解散へ[ソースを編集]

しかし、1968年1月に薬物不法所持のためパーマーが再び強制送還され、せっかくの活動に水を差す。グループには後任としてジム・メッシーナが加入。パーマーがいなくなったのに続いてヤングも徐々にグループから離れてゆき、しばしばスティルスがライブですべてのリードギター・パートを弾くことになった。

レコーディングは、3月の終わりまでにメッシーナのプロデュースで予定通り行われたが、グループの解散は間近であった。

 

1968年3月20日にヤング、メッシーナ、フューレイの3人がエリック・クラプトンのドラッグ所持容疑に連座するかたちで逮捕されたことで、解散が決定的となった。後は契約を遂行するためだけにギグをこなし、5月5日のロング・ビーチ・アリーナでのコンサートを最後に解散した。結成からわずか2年後のことであった。

 

「For What It's Worth / Buffalo Springfield」