Bob Marley & The Wailers - Redemption Song

Bob Marley & The Wailers - Redemption Song (Band Version)

 

これまでにボブ・マーリーを更新した回は、下記です。

 

個人的には2番目のYoutubeのband versionの方が好きですが、

 

1番目のアニメーションも とても面白い音譜

 

是非、壮絶なボブ・マーリーの半生、

下記のwikipediaをご覧ください。

 

ロバート・ネスタ・マーリー英語Robert Nesta Marley OM1945年2月6日 - 1981年5月11日)は、ジャマイカシンガーソングライターミュージシャンレゲエの先駆者の一人であり、スカの時代から活躍しロックステディレゲエの時代まで音楽界を駆け抜けた。また洗練された歌声と宗教的・社会的な歌詞、曲で知られた。マーリーは60年代から80年代初頭までレゲエ音楽とカウンターカルチャーの活躍により、ジャマイカ音楽の世界的な認知度を高めることに貢献した。マーリーはラスタファリの象徴、ジャマイカの文化とアイデンティティの世界的なシンボルともみなされた。マリファナ合法化支持者であり、汎アフリカ主義でもある。

音楽ソフトの推定売上枚数は世界中で7,500万枚を超え、マーリーの音楽と思想は後進のミュージシャンなどに影響を与えた。

 

1959年、マーリーはクイーンズ・シアターのタレント・ショーで初めて正式に大衆の前に立ち、歌を一曲披露、賞金1ポンドを獲得する。歌では食べていけないと心配したセデラの勧めで溶接工の仕事に就く。しかし仕事中に金属片が目に入り込むケガを負ったことをきっかけに、夢であったミュージシャンを目指す決意を固める。マーリーとバニーは、サード・ストリートに住んでいたシンガーのジョー・ヒッグスが開く無料の音楽教室に参加し、音楽的指導とラスタファリ運動の教えを受けた(マーリーたちはセカンド・ストリートに住んでいた。)。その際にウィンストン・マッキントッシュ(ピーター・トッシュ)と出会う。1961年、マーリーは既に作曲を始めており、レスリー・コングのビヴァリーズ・レコードの店へ売り込みに行くも門前払いを食らう。

 

1963年、セデラがセカンド・ストリートの家を離れアメリカへ行くと、マーリーはトレンチタウンで路上生活をするようになった。この時の体験が1974年発表のアルバム『Natty Dread』収録の名曲「No Woman No Cry』を生んだ。

同年、マーリーはバニー・ウェイラーピーター・トッシュ[注 1]、ジュニア・ブレイスウェイト、ビバリー・ケルソ、チェリー・スミスらと共にザ・ティーンエイジャーズを結成。後に彼らは名前をザ・ウェイリング・ルードボーイズ、ザ・ウェイリング・ウェイラーズと変更していくが、スタジオ・ワンのレコードプロデューサーであるコクソン・ドッドと契約する頃、最終的にザ・ウェイラーズになった。

 

1963年の暮れにスタジオ・ワンから発表したシングル「Simmer Down」が、1964年2月にはJBC(ジャマイカ放送)などで1位を獲得、約80,000部を売り上げる大ヒットとなった。のちにレゲエの象徴ともなる名曲「One Love」も、この時期にボブによってスカ・バージョンで作られている。1966年までにブレイスウェイト、ケルソ、スミスがザ・ウェイラーズを去り、マーリー、バニー・ウェイラーピーター・トッシュの3人が残された。ちなみに「タフ・ゴング」というニックネームがついたのはこの頃である。

 

1966年2月10日、リタ・アンダーソン(19)と結婚。そして翌朝には職を求め(スタジオ・ワンでは曲がヒットしてもメンバーに金が入ってくることは殆どなかった。)、デラウェア州ウィルミントンに住む母セデラの下へ飛び発つ。ドナルド・マーリーという名前でクライスラー社の自動車工場のライン工員、デュポン社の実験研究室の助手として働いた。なお、駐車場の係員やレストランの皿洗いなどのパートも経験したといわれている。カトリック教徒として育ったマーリーだったが、セデラの影響から離れている間に「ラスタファリ運動への関心をさらに高め」ており、マーリーもこの頃からドレッドヘアにするため髪を伸ばし始めた。マーリーのいない約8ヶ月間、ザ・ウェイラーズはマーリー抜きで活動を続けた。同年10月にキングストンへ戻った後、正式にラスタファリに改宗。

 

1967年、マーリーとバニー・ウェイラーが大麻不法所持で逮捕、投獄された。マーリーは1ヶ月間、バニーは約12ヶ月間の生活を送ることになる。1967年8月23日、妻のリタがセデラ・マーリーを出産した。マーリーとリタは娘と共に1970年までセント・アンで暮らす。

 

1968年、ジョニー・ナッシュ、ダニー・シムズと契約する。ピーター・トッシュが「反ローデシア白人政権デモに参加」し逮捕される。1968年10月17日、リタがデヴィッド・マーリー(ジギー・マーリー)を出産した。

 

1973年春、メジャーデビューアルバム『Catch a Fire』を発表(「Concrete Jungle」「Slave Driver」「Stir It Up」「Kinky Reggae」「No More Trouble」)。この頃、トロージャン・レーベルからアルバム『African Herbsman』が発表された。5月、イギリスのラジオ番組「トップ・ギア」にて演奏。6月には厳格なラスタであるバニーが適切な自然食を取ることが出来ないなどの理由から、ツアーへの不参加を表明した。7月、バニーの代わりにジョー・ヒッグスを加え初のアメリカツアーを行い、ニューヨークではブルース・スプリングスティーンの前座を務める。デビューアルバム発表から約半年後の10月19日、アルバム『Burnin'』を発表した。(「Get Up, Stand Up」「I Shot The Sheriff」「Burnin' And Lootin'」「Small Axe」「Rastaman Chant」など。)

 

1974年1月、新メンバーを迎えアルバム『Natty Dread』のレコーディングを開始する。5月、マーヴィン・ゲイのジャマイカ公演でオリジナルウェイラーズが復活、最後の演奏を行った。その直後タフ・ゴング・レーベルから発表した「Rebel Music (3 O'Clock Roadblock)」がヒット。

7月、エリック・クラプトンが「I Shot The Sheriff」をカバーし、全米ビルボードチャート1位を獲得する。

10月25日、アルバム『Natty Dread』を発表した。(「Lively Up Yourself」「No Woman No Cry」「Them Belly Full (But We Hungry)」「Natty Dread」「Talkin' Blues」など。)

 

1976年4月30日、アルバム『Rastaman Vibration』を発表(「Positive Vibration」「Root, Rock, Reggae」「Crazy Baldhead」「Who The Cap Fit」「War」など)。政治闘争、軍拡競争を批判した「Rat Race」がジャマイカで大ヒットした。

ヒットの背景には、マイケル・マンリー率いる人民国家党(PNP)とエドワード・シアガが率いるジャマイカ労働党 (JLP) の二大政党による対立の激化があった。

 

マーリーはスティービー・ワンダーの慈善コンサートに参加して以来、自分たちでも無料のコンサートを開催したいと考えていた。そこでPNPに協力を呼びかけ、1976年12月5日に「スマイル・ジャマイカ・コンサート」を開催することを計画した。コンサートのために「Smile Jamaica」というタイトルの曲を二種類のバージョンで録音している。このマーリーのコンサートの趣旨は、「二大政党の対立により混迷するジャマイカに微笑みを与えよう」というものだった。しかし、コンサートが近づくにつれ、匿名の警告や脅迫が相次いだ。

 

1976年12月3日、コンサートのリハーサル中に銃で武装した6人の男に襲撃を受け、マーリーも胸と腕を撃たれた。重傷の者もいたものの、幸い死者は出なかった。二日後、コンサートに出演。マーリーは約80,000人の聴衆に向かって「このコンサートを開く事を二か月半前に決めた時、政治なんてなかったんだ! 僕は人々の愛のためだけに演奏したかった」と言い、約90分の演奏をやりきった(「War/No More Trouble」「Get Up, Stand Up」「Smile Jamaica」「Keep on Moving」「So Jah Seh」など)。演奏の最後には、服をめくり胸と腕の傷を指さして観客に見せつけその場を去った。翌日早朝、マーリーはジャマイカを発ちバハマへ。後にコンサートに出演した理由を尋ねられたとき、「この世界を悪くさせようとしてる奴らは休みなんか取っちゃいない。それなのに僕が休むなんて事ができるかい?」と語った。

 

1979年には4月から日本オーストラリアニュージーランドで公演を行った。7月21日、ボストンで黒人解放運動を支援するアマンドラ慈善コンサートに出演、南アフリカアパルトヘイトに対する強い反対の意を示した。この頃、シングル「Zimbabwe」が大ヒット。10月2日にはアルバム『Survival』を発表(「So Much Trouble In The World」「Zimbabwe」「Africa Unite」「Ride Natty Ride」「Wake Up And Live」など)、アフリカのミュージシャンが次々と「Zimbabwe」のカバー・ヴァージョンを発表する。11月13日、ガーナからアシャンティのオサヘネ(元は救世主の意)の称号を受けた。

 

1981年4月、ジャマイカの名誉勲位であるメリット勲位が贈られた。しかし5月9日、チャーター機で母のいるマイアミに戻りシダーズ・オブ・レバノン病院に入院。5月11日午前11時30分過ぎ、マーリーは妻と母に見守られながら息を引き取った。息子・ジギーへの最後の言葉は、「お金は命を買えない」だったという。マーリーの最終的な死因は、脳腫瘍と腫瘍の肺への転移によるものとされている。36歳没。

 

 

「Redemption Song / Bob Marley & The Wailers」