Eddie Cochran - Summertime Blues (Town Hall Party - 1959)

Summertime Blues

 

これまでにエディ・コクランを更新した回は、下記です。

 

この曲を初めて知ったのは、ブルー・チアーのversionだった。

 

このブルー・チアーの方が、強烈なDrumsで印象がとても強いビックリマーク

 

Blue Cheer - Summertime Blues (1968)

 

しかし、エディ・コクランは自動車事故により21歳の若さで他界しています。

 

エディ・コクラン(Eddie Cochran、本名:エドワード・レイ・コクラン(Edward Ray Cochran)、1938年10月3日 - 1960年4月17日)は、アメリカ合衆国のロック・ギタリスト、シンガー。1960年人気絶頂の最中事故死を遂げた早逝のロックンローラー。

代表曲「サマータイム・ブルース」「カモン・エヴリバディ」。2003年ローリング・ストーン誌選出「史上最も偉大な100人のギタリスト」84位。

 

エディ・コクラン (本名エドワード・レイ・コクラン) は1938年10月3日ミネソタ州アルバートリーで父フランク母アリスの間に生まれる[1]。12歳の時、学校のオーケストラへドラムもしくはトロンボーン奏者としての参加を望んだが願い能わず、代わりに兄ボブからギターを教わる。1951年、一家はカリフォルニアへ移住。同年9月ベルガーデン中学入学、フレッド・コンラッド・スミスに出会う。彼は「コニー・スミス」と呼ばれ、学校のオーケストラでベースを担当し、スティール・ギター、マンドリンも演奏した。エディは新たな環境とコニーに触発されギターの練習に夢中になる。「私が許したならあの子は24時間ギターを弾いていたでしょう。」(母アリス)[2]

 

リバティとの契約[ソースを編集]

リバティ・レコードは1955年に設立した新興レーベルだったが開設早々ジュリー・ロンドンの「クライミー・ア・リヴァー」がミリオンセラーを記録、チップ・モンクスなどのノヴェルティがヒットし急成長を遂げていた。唯一カタログに欠けていたもの、それは「ロックンロール・シンガー」だった。この年の1月RCAヴィクターからメジャーデビューしたエルヴィス・プレスリーは瞬く間にヒット・チャートを席捲、各レコード会社は「ポスト・エルヴィス」探しに躍起になっていた。「女はそれを我慢出来ない」出演がきっかけとなり9月8日、エディとリバティは1年の契約を交わす[2]

1957年[ソースを編集]

バルコニーに座って[ソースを編集]

ABCパラマウントはノースカロライナ州の「コロニアル(Colonial)」レーベルをリバティと競合の末に買収した。敗れた形のリバティは負けじとコロニアル専属であるシンガーソングライター、ジョニー・ディー作曲「バルコニーに座って (Sittin' in the Balcony)」をエディ最初のシングルに決定する。当初「女はそれを我慢出来ない」の公開に合わせ「トゥエンティ・フライト・ロック」のリリースが予定されていたが[注釈 5] 急遽変更となった。

 

3月にオリジナルのジョニー・ディー盤と共にホット100入り、ジョニー(38位)、エディー(18位)の全国ヒットとなった。だがフォローアップのための続く2枚のシングル「ミーン・ウェン・アイム・マッド/ワン・キス」(5月)「ドライブ・イン・ショウ/アム・アイ・ブルー」(7月)は振るわず、かろうじて「ドライブ~」が82位となっただけだった。

10月ジーン・ヴィンセントリトル・リチャードと共にオーストラリア・ツアー。同国ではこの年の1月にビル・ヘイリージョー・ターナーらが大規模なロックンロール・ショウを成功させており二度目のロックスターの来訪となっていた。この公演の最中リトル・リチャードは突然引退を宣言、シドニーのハーバー橋から所持する宝石を投げ捨てている[2]

 

サマータイム・ブルース[ソースを編集]

「ラブ・アゲイン」と言う曲のB面に関してエディとケープハートの間で打ち合わせが行われた。同席していたロカビリー奏者ベイカー・ナイト(Baker Knight)によれば「ケープハートの自宅でビールを飲みながらのリラックスした話し合いだった。エディはブルース・リックを弾き、ケープハートは『流行りの言葉を歌詞に入れよう』とアイディアを出した。一時間後に曲が完成、『サマータイム・ブルース』と名付けられた。」[2]

 

「彼は私の事を覚えているかしら。」若き女性作曲家シャロン・シーリー(Sharon Sheeley)は高揚する気持ちを抑えてゴールドスター・スタジオに入った。彼女自身が作曲、ケープハートに持ち込んだ「ラブ・アゲイン」の録音に立ち会うためでもあり、昨年のクリスマスにABCパラマウント劇場でエヴァリー・ブラザースから紹介されたエディ・コクランとの再会でもあったからだ。残念ながらエディは彼女の事は覚えていなかったがこの録音を機に二人は親しい間柄となる[2][注釈 8]

 

6月11日、「ラブ・アゲイン / サマータイム・ブルース」発売[4]。リリース当初反応は無かったが、しばらくすると不思議な現象が起きた。DJや音楽レビュアーがB面の「サマータイム・ブルース」を取り上げだしたのだ。8月に最高8位を記録、エディ生涯最大のヒットとなった。

奇しくも「サマータイム・ブルース」がチャートを上昇している7月、ビルボードNO.1に輝いていたのはシャロンがリッキー・ネルソンに書いた「プア・リトル・フール」だった[2]

 

1960年

4月16日土曜朝、ツアーマネージャー、パトリック・トンプキンズ(ハル・カーターの代行)はエディとジーンに封筒を渡した。中を開けたエディは叫んだ。「アメリカ行きのチケットだ。」その日の残りの時間、二人はただ座って航空券をながめていた。午後10時30分ステージ終了。ポップ歌手ジョニー・ジェントル(Johnny Gentle)は出演をキャンセルしたミュージシャンの代役を終えて楽屋の廊下で人を待っていた。エディはジェントルが車で来たことを知るとロンドンまでの同乗を申し出るが断られてしまう。「友人を乗せなければいけなかったので二人以上は無理でした。彼(エディ)はタクシーを呼ぶと言いました…。」(ジェントル)[注釈 13][2]

 

同日午後11時、エディ・コクラン、ジーン・ヴィンセント、シャロン・シーリー、[注釈 14] パトリック・トンプキンズの4人を乗せたフォード・コンサルはグランド・ホテルを出発。その日の午後、結婚式の送迎で使用された車内にはまだ紙吹雪が残っていた。ロンドンまで100マイル(約160km)、翌日午後1時ヒースロー空港からの便で帰国する予定だ。19歳の若いドライバーの運転する車は時速70マイル(113キロ)のスピードで疾走する。しかし主要道路に向かう途中トンプキンズは車が出発地ブリストルに戻っている事に気付いた。「君、道間違ってるぞ。どこかで車を戻すんだ。」深夜12時頃[注釈 15]、ウォルトシャー州チッペンハムのローデンヒル通りレイルウェイ高架橋近くの緩やかなカーブを走行中、車はコントロールを失い反対車線の縁石に衝突、横滑りのまま150ヤード(137メートル)暴走し街路灯に激突。衝撃で後部座席左側の天井支柱が破損、エディは車外に放り出された。ドライバーとトンプキンズは無事、シャロンは軽傷、ジーンは鎖骨を折る重傷。最も損傷のひどかったエディ・コクランは翌17日午後4時10分、搬送先のセント・マーチン病院で死亡が確認された。死因は事故による頭部外傷。亡き骸は本国に送られ、4月25日月曜日カリフォルニア州グレンデールのフォレスト・ローン・セメトリーに埋葬された。21歳没[2]

 

エディ・コクランの死去に対する反応はアメリカとイギリスで対照的であった。アメリカでは地方紙が報じる程度にとどまり、最後のシングル「スリー・ステップ・トゥ・ヘブン」はホット100にも入らなかった[注釈 16]。イギリスでは各紙が一面で報道、連日追い記事が掲載され、「スリー・ステップ~」は6月に1位を獲得する。

 

「Summertinme Blues / Eddie Cochran」