James Brown - I Got You (I Feel Good) (Live 8 2005)
James Brown - I Got You (I Feel Good) (Visualizer)
これまでにジェームス・ブラウンを更新した回は、下記です。
「So good!」とシャウトする部分が印象的で、
とても馴染み深い名曲
たぶん誰もが、何回かは聴いたことがある曲
ホーン・セクションも最高で、
ジェームス・ブラウンのシャウトは元気が出ますね
ジェイムズ・ジョセフ・ブラウン・ジュニア(James Joseph Brown, Jr., 1933年5月3日 - 2006年12月25日)は、アメリカ合衆国のソウル歌手[4] 、作曲家、編曲家、音楽プロデューサー、レコード・レーベル・オーナー、社会事業家。ファンク、ブルース、ゴスペル音楽、R&B、ソウルなどの音楽性を持ち、アフリカ系アメリカ人で長きにわたり一般的な人気を博した。上記の通り、1933年生まれとあるが実際には1928年生まれの説もある[5]。
「ナンバーワン・ソウル・ブラザー」「ゴッドファーザー・オブ・ソウル」「ミスター・ダイナマイト」「ファンキー・プレジデント」など、いくつものニックネームを持っていた。シャウトを用いたソウルフルなヴォーカルと、革新的なファンク・サウンドを確立したことで知られる。
父はアメリカ先住民のアパッチ族で、母はアフリカ系アメリカ人とアジア人の系統である[6][7]。
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第10位[8]。「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第7位[9]。「Q誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第37位[10]。
1950年代(ミスター・ダイナマイト)[ソースを編集]
ブラウンとバードの妹サラは、1955年からゴスペル・グループ「ザ・ゴスペル・スターライターズ」として活動を始める。その後、結局ブラウンはバードのグループ「エイヴォンズ」に参加し、バードはグループをリズム・アンド・ブルースバンドとして活動していくことになる。バンドは、その名を「フェイマス・フレイムズ」と変え、オハイオ州シンシナティでシド・ネーサンのキング・レコード[注 1]と契約を結ぶ。
シド・ネーサンは頑固な男だった。ブラウンが「プリーズ~」と歌い始めるとネーサンは腹を立て、スタジオから出ていってしまった。ネーサンの言い分は「こんなものは音楽でも何でもない。ただのクズだ」というものだった。それでもブラウンが音楽的な妙味を説明し、なんとか発表にこぎつけることができた。
バンドのファースト・シングル「プリーズ・プリーズ・プリーズ Please, Please, Please」[注 2]は、1956年にリリースされた。レコードには「ジェイムズ・ブラウンとフェイマス・フレイムズ James Brown with the Famous Flames」とクレジットされ、同シングルはチャート5位を記録し、ミリオン・セラーとなった。しかしながら、その後はヒット曲に恵まれず、続く9枚のシングルが商業的に失敗した後、キング・レコードはバンドと契約解除を行おうとした。
1958年の「トライ・ミー Try Me」がビルボード48位の小ヒットとなり、バンドは活動を継続させることができた。
バンドの曲のほとんどはブラウンが作曲し、バードのバンドであったフレイムズはブラウンが実質的なリーダーへと変化、結局は後のソロ活動において、フレイムズがバックバンドとなっていった。
これらの初期の録音には「I'll Go Crazy」(1959)「Bewildered」(1960)といったゴスペルの影響を強く受けた曲や、ルイ・ジョーダン、エイモス・ミルバーン、ワイノニー・ハリスらの影響を受けた作品が含まれていた。
しかし、その歌唱スタイルは変化、後には「ファンク」と呼ばれるスタイルに発展し、Pファンク[注 3]、スライ・ストーン、プリンスなどに強い影響を与えた。
1960年代(ファンク革命)[ソースを編集]
ブラウンとフレームスの初期のシングルは、アメリカ南部およびR&Bチャートでは成功していたが、彼らの全国的な成功は、キング・レコードの反対を押し切ってリリースした『Live at the Apollo (1962)』まで待たなければならなかった。
ライブ・アルバムが成功した後、ブラウンは最初のファンク・ナンバーとされる1964年の「アウト・オブ・サイト・Out of Sight」を発表した[13] 。さらに「 Night Train」を制作した。これらの曲は、ギターのカッテングに、ホーンセクションとベース・ドラムスが特徴だった。ブラウンのヴォーカルは、リズミカルバックにのり好調を保った。
しかしながら、「Out of Sight」はスマッシュ・レコードからリリースされたため、キング・レコードとの契約破棄に関する法廷闘争となり、裁判所は彼の録音作品の1年間リリース禁止を言い渡した。1967年ごろのJBsのドラマーには、「ファンキー・ドラマー」クライド・スタブルフィールドがいた。「コールド・スウェット」はクライドがドラムスを担当した傑作ナンバーだった。
1970年代(ファンキー・プレジデント)[ソースを編集]
1960年代末から1970年代初頭に、彼はキャリアの頂点を迎える。この時期のヒットとしては「セックス・マシーン」「リッキン・スティック」「スーパー・バッド」「ソウル・パワー」「ギブ・イット・アップ・オア・ターン・イット・ルーズ[注 4]」「アイム・ア・グリーディ・マン」「メイク・イット・ファンキー」などがある。
1970年3月には、ジェームス・ブラウンのバック・バンドに大幅なメンバーチェンジがあった。給料に関するトラブルから、メイシオ・パーカー(テナーサックス)をはじめとするメンバーのほぼ全員が脱退した。それに伴い、ブーツィー・コリンズ(ベース)らを中心とする新しいバンドが迎え入れられる。彼らは「JBズ The J.B.'s」と名付けられ、その名義でのリリースも行うようになった。
「I Got You / James Brown」