Buddy Holly - Not Fade Away (1957)

Buddy Holly - Not Fade Away (HD) 2020

 

これまでにバディー・ホリーを更新した回は、下記です。

 

旧 mayu浦和 音楽ブログでは全く更新していなかったバディー・ホリーでしたが、

 

このブログになってからは多数登場音譜

 

理由は、この素敵な美声を多くの方のお伝えしたいからです。

 

悲劇の22歳

もっと生きていたら、間違いなく もっと功績を上げていたアーティスト

 

ビートルズの前進、クオーリーメン。

そして、ローリング・ストーンズのアメリカ進出 1曲目が、この曲だったことからも、

いかにバディー・ホリーが偉大だったかを物語っていると言えよう。

 

チャールズ・ハーディン・ホリーCharles Hardin Holley1936年9月7日 - 1959年2月3日)は、バディ・ホリーBuddy Holly)の名で知られるアメリカ合衆国シンガーソングライター。1956年から1959年にかけてザ・クリケッツ英語版)を率い音楽活動を行っていた。1959年にリッチー・ヴァレンスザ・ビッグ・ボッパーと共に搭乗した小型機の墜落事故により死去。

テックスメックスと呼ばれる独特のサウンドと黒縁メガネのルックスは後世のロック・グループに強い影響を与えた。1986年にロックの殿堂入り。

 

しゃくりあげるような裏声を用いて独特のアクセントをかもすヒーカップ唱法や、現代のロックにも通じるギターサウンドや軽快なビートが特徴である。[独自研究?]

 

活動後期にはヴォーカルのダブルトラックストリングスの導入など、レコーディング・テクニックの可能性を追求し始めた。存命し続けていればさらなる音楽的発展が期待できたとも言われており、今尚その早すぎる死を惜しむ声は多い。[要出典]

 

ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第48位[3]

 

ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第13位。

 

2011年、「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」において第80位。

 

ミュージシャンとしての成功、そして結婚。順風と思われたバディの周辺が急にざわつき始める。マリアはクリケッツのツアーに同行しメンバーの身の回りの世話をしながらコンサートの収益を集計した。しばらくするとマリアと叔母ガルシアはある事に気付く。コーラル、ブランズウィックから支払われるバディ&クリケッツのロイヤリティ(著作権使用料)をノーマン・ペティが自分の会社の口座に引き入れているらしい、と。それを知らされたバディはエヴァリー・ブラザースから紹介された弁護士ハロルド・オレンスタインを雇いペティと結んでいたマネージャー、プロデューサーとしての契約の解消とロイヤリティ回収に動く[5]

 

時を同じくしてもう一つの金銭トラブルが発生する。バディはN.Yのプロモーター、マニー・グリーンフィールドと「メデイア出演やコンサートを斡旋した場合その収益の5%を斡旋料として支払う」旨の約束を口頭で交わしていた。実際ディック・クラーク・ショーやイギリス・ツアーをブッキングしたグリーンフィールドに対しバディは約束通りの金額を支払ったがグリーンフィールドは「ブッカーとしてだけではなくマネージメントも行った」と主張、さらなる支払いを要求し訴訟を起こす。ニューヨーク法によれば「訴訟はニューヨーク州から州外に向けられたものであるため問題が解決するまで資産を凍結する」とした。これによりバディは必死に稼いだカネをどうする事も出来なくなった[5]

 

バディとノーマン・ペティの決別に対しクリケッツのメンバーが選んだ道はペティについていく事だった。バディを成功まで導いたペティ、アマチュア時代から苦楽を共にしてきたクリケッツの仲間たち。永遠に続くと思われた絆は脆くも崩れ去った。このトラブルに突き動かされるようにバディは最後のツアーへと向かう[注釈 27]

 

12月5日自宅録音開始。結婚を機に移り住んだグリニッチビレッジのアパート[注釈 28]で作曲のアイデアやデモを新しく手に入れたギター[注釈 29]を弾きながらレコーダーに吹き込んだ。ノーマン・ペティの回想。「バディは自宅で録音するためのテープ・レコーダーを欲しがっていました。私が最新の機器を薦めると「いや、私が欲しいのは『ペギー・スー』を録音した、オクラホマ・シティで使ったのと同じもの。[注釈 30]」と言うので私はその時使用したポータブル・レコーダーを彼に譲りました」以下マリア談「バディはよく私に新しい曲の感想を聞きました。曲が出来ると私と二人でピアノがある私の叔母のアパートへ行き曲が正しく聞こえるかどうかの確認をしました。私の名前「マリア・エレナ」を曲名にしてもらいバディにスペイン語を教えながら一緒に歌った事がありますがその時のテープはもうどこかへ行ってしまったでしょう」これらの音源はバディの死後ノーマン・ペティの手によりバッキングを加えたオーバーダビング処理がなされ「ペギー・スー・ゴット・マリッド」「ラブ・イズ・ストレンジ」などがシングル化された[4]

 

最後のツアーとなる「ウィンター・ダンス・パーティー」の直前、レストラン「ブライアー・ハウス」でバディー・ホリー、ディック・ジェイコブス、デッカとコーラルの副社長を兼任するマーティ・ソルキンの三者による今後の音楽的方向性についての話し合いが持たれた。ジェイコブスの回想。「非常に満足する内容でした。ソルキンは『それが優れた音楽である限り変更の必要は無い。』と言いました。バディはこれから始まるツアーを楽しみにしていましたが彼と会ったのはその時が最後となってしまいました…」[4]

 

バディの自宅にツアー・サポートの面々が集まった。ウェイロン・ジェニングス(Bass)、トミー・オールサップ(Gt)[注釈 31]、カール・バンチ(Drs)[注釈 32]ら三人。急造バンドではあったが、いずれもバディの人脈による腕利きたち。リハーサルを行い、1月20日頃シカゴで他のミュージシャン[注釈 33]と合流した。ツアーは1月23日ミルウォーキー公演からスタート。2月15日まで中西部24都市を廻る予定。しかし一週間もすると様々な問題がミュージシャンたちを苦しめ始める。休日無しの連日の長距離移動、ツアー・バスの度重なる故障、清潔な衣類の供給もままならない不衛生な環境、そしてギャランティー支払いの遅滞と。氷点下を下回る気温の中、ヒーターの無い車中で火を燃やし暖を取る有り様だった。カール・バンチは凍傷を患い、ビック・ボッパーはインフルエンザと診断された[4]

 

2月2日、ツアー11日目アイオア州クレアレイクの「サーフボールルーム」[注釈 34]でのステージを終えた一行は次の公演先ミネソタ州ムーアヘッドへ向かう。365マイル(約600キロ)を拷問に等しいオンボロバスでの移動を嫌ったバディは、小型飛行機をチャーターする事に決めた。自分がツアーに誘ったジェニングスとオールサップも同乗させ、少しでも休息をとるつもりだった。しかしジェニングスは体調不良のビッグ・ボッパーに気を遣って席を譲り、オールサップはヴァレンスとのコインの裏表の賭けに負けバスの座席を余儀なくされた。2月3日午前0時55分、三人のロックスターを乗せたビーチボナンザ機は猛吹雪のメイソンシティ市営空港を飛び立った[4]

 

「本日アイオア州クレアレイクでチャーター機の墜落事故発生。パイロットを含む乗員4名が全員死亡。乗客は全国トップクラスのロックンロール・スター、リッチー・バレンス、J.P(ザ・ビッグ・ボッパー)リチャードソン、バディ・ホリーの3名[4]。」

 

TVニュースで事故を知った妊娠2か月のマリア夫人はショックの余り流産、愛する家族を同時に失う悲劇に見舞われる[注釈 35]。2月7日、ラボック、タバナクルバプテスト教会で葬儀が執り行われた。バディ・ホリー、享年わずか22歳であった。興行を主催したプロモート会社ゼネラル・アーティスト・コーポレーションは、事故の遠因となった過酷な日程を指摘されるもツアーを続行、ボビー・ヴィー(当時15歳)がバディの代役を行った。コーラルレコードは2月28日にLP『ザ・バディ・ホリー・ストーリー』をリリースし、故人を追悼。事故調査を行った民間航空委員会(CIV)は原因を「悪天候とパイロットのミスが重なり発生」と結論付けた[5]

 

1957年7月イギリスのスキッフル・バンド、クオリーメンはなけなしのカネをはたいて1枚の78回転SP盤を制作する。バンドのメンバーは記念すべき最初の録音を共通のアイドル、バディ・ホリーの「ザットル・ビー・ザ・デイ」をディスクの片面に刻んだ。

1960年ザ・クリケッツにあやかりバンド名を「ザ・ビートルズ」に変更する。(詳細はザ・ビートルズ参照)

「私はバディの歌い方、そして歌詞が好きです。彼はそれまでのミュージシャンと全く違っていました。今では当たり前のように思うかもしれませんが当時シンガーソングライターなどと言うものは一人もいませんでした。私とジョンは彼に触発されオリジナル曲を書き始めました。バディ・ホリーは素晴らしいミュージシャンです。」[11](ポール・マッカートニー)[注釈 37]

 

1964年ザ・ローリング・ストーンズはシングル盤「ノット・フェイド・アウェイ」で米国デビュー。オリジナルは1957年バディ・ホリーがボ・ディドリー・ビートを下敷きにし作曲したもの。全米48位、英国3位を記録[13]

「レコードのジャケットを見るまでバディ・ホリーは黒人だと思ってた。[14]」「バディから曲の書き方とそれをまとめる方法を学んだ。彼は美しい作家さ」(ミック・ジャガー)「1958年頃(イギリスでは)エルヴィスかバディ・ホリーの二派に分かれてたよな。見りゃすぐに分ったもんさ。エルヴィスファンは黒の革ジャン、バディのファンは何となくバディっぽい恰好してたもんだ。」(キース・リチャーズ )[15]

 

「Not Fade Away / Buddy Holly」