Huey Lewis & The News - If This Is It

Huey Lewis and the News LIVE at 25 - If This Is It (HD)

 

これまでにヒューイ・ルイス&ザ・ニュースを更新した回は、下記です。

 

苦労人であるが人情味に溢れ、義理固いヒューイ・ルイスがとても好きだ。

 

その原点であるシン・リジーのフィル・ライノットは偉大な存在だアップ

 

それは、私が最も好きなアーティストであるジャクソン・ブラウンも同様だ。

 

この曲のクリス・ヘイズによるguitarは最高だビックリマーク

guitar soro、短いフレイズながらキャッチーな面が素晴らしい。

 

おそらく2017年のBunkamuraオーチャード・ホールがラスト来日だったと思うので、

行っておけばよかったと、今でも後悔しています。

 

とは言え、10月にはヒューイと非常に繋がりのあるニック・ロウを観に行きます音譜

 

 

ヒューイ・ルイス&ザ・ニュース(Huey Lewis & The News)は、アメリカロックバンド

 

1980年代に数々のヒットで高い人気を博したアメリカン・ロックの代表的存在。特に、映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の主題歌で世界的なブレイクを果たした。

 

骨太のロックンロールを基盤に、ヒューイのハスキーボイスと爽やかなハーモニーを特徴とするキャッチーなサウンドは、1980年代アメリカのポジティブなイメージをそのまま音楽で表した存在と評されている。

 

 

 

ヒューイ・ルイス(Huey Lewis)は1950年7月5日にニューヨークで生まれる。母親がヒッピー思想家であり、白人ながら黒人居住区に住んでいたことで、自然とR&Bなどの黒人音楽に親しむようになった。コーネル大学工学部に入学するがすぐ退学。ほどなくしてサンフランシスコへ引っ越した。

 

 

 

コーネル大学時代にバンドを結成し音楽活動を始め、1972年にショーン・ホッパーとともにカントリーロック・バンドのクローバーに加入する(クローバーの前身、タイニー・ヒアリング・エイド・カンパニーは1966年結成。翌1967年にクローバーと改める)。

1976年、クローバーはパブロック界の大御所ニック・ロウの誘いを受けて渡英、

エルヴィス・コステロのファーストアルバムのバックを務めることとなる。ヒューイの加入後、1977年にサードアルバムをリリース、その後4枚目のアルバムも発表したが解散。なお、サードアルバムのジャケット表記では、ヒューイは「HUEY LOUIS」という綴りになっていた。

 

この時期ヒューイをはじめとするクローバーの面々はアイルランドダブリン出身でイギリスでも高い人気を得ていたシン・リジィの前座として起用され、その縁でリジィのアルバム『ライヴ・アンド・デンジャラス』にヒューイがブルースハープ奏者として参加している。

ヒューイはリジィのリーダーであったフィル・ライノットから多くのことを学び、自らの糧とする。後述するようにヒューイは多くの才能の発掘・人気向上に力を貸すことになるが、その姿勢は駆け出しのU2ブームタウン・ラッツなどに力を貸したライノットの姿勢に重なるところがある。

 

クローバー解散後ヒューイはサンフランシスコに戻ってアメリカン・エキスプレスというバンドを結成するが、これも失敗に終わっている。

 

その後、ヒューイ・ルイスは、1979年に失業中のミュージシャン達を集め、サンフランシスコにかつて存在した、「アンクル・チャーリーズ」という酒場で、後にニュースのメンバーとなる、ジョニー・コーラクリス・ヘイズ、マリオ・シポリナ、ビル・ギブソン、ショーン・ホッパー(ヒューイと共にクローバーで活動していた)らとバー・バンドとして活動を始めた。そんな中、後にマネージャーとなる、ビル・ブラウンが彼らの才能を見出して、彼の力でめでたくクリサリス・レコード社との契約を結んだ。

 

下積みを経て1980年、ヒューイ・ルイス&ジ・アメリカン・エキスプレスを結成、これがヒューイ・ルイス&ザ・ニュースと名を変えてデビューする運びとなった。1980年にリリースされたファースト・アルバム『ヒューイ・ルイス&ザ・ニュース』は、商業的失敗に終わったが、

1982年、セカンドアルバムである『ベイエリアの風』からシングルカットされた「ビリーヴ・イン・ラヴ」がヒットし、ようやくヒューイは日の目を見る。

 

そして1983年、アルバム『スポーツ』を発表。「アイ・ウォント・ア・ニュー・ドラッグ」、「ハート・オブ・ロックンロール」、「いつも夢見て(If This Is It)」などのヒット曲を連発、アルバムは800万枚以上を売り上げ、バンドは一躍スターの仲間入りを果たした。

また「アイ・ウォント〜」が半年後にレイ・パーカーJr.の「ゴーストバスターズ」に盗用され、裁判沙汰になるというオマケもついてきた。

 

1985年には大ヒット映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の主題歌「パワー・オブ・ラヴ」が全米1位の大ヒットを記録する。ヒューイも映画に脇役(オーディションの審査員)としてカメオ出演。主人公マーティが「パワー・オブ・ラヴ」のイントロ部分の演奏途中で「分かった、もういい、止めろ、うるさ過ぎる、次のグループの番だ」という台詞を言う。同年にヒューイはUSAフォー・アフリカの「ウィー・アー・ザ・ワールド」に参加、ブリッジ部分でリード・ボーカルを務めた(プリンスの代役)。

1986年のアルバム「FORE!」からは「ジェイコブズ・ラダー」と「スタック・ウィズ・ユー」の2曲が全米シングルチャートのナンバー1に輝き、バンドの人気は絶頂を極める。

 

苦労人で義理堅いヒューイは、サンフランシスコ出身のベテラン・ファンク・バンドのタワー・オブ・パワーのホーンセクションを起用し、その復活に力を貸した(1991年のアルバム『ハード・アット・プレイ』には彼らのホーンセクションは登場しない)。またニック・ロウの「アイ・ニュー・ザ・ブライド」をプロデュースしてアメリカでヒットさせている。1986年にデビュー曲「ザ・ウェイ・イット・イズ」の全米1位ヒットを放ったブルース・ホーンズビー&ザ・レインジは、ヒューイが見つけ出した才能の一人だった。

 

「If This Is It /Huey Lewis & The News」