George Michael, Aretha Franklin - I Knew You Were Waiting (For Me) (Official Video)

George Michael & Aretha Franklin - 1988-08-29 - "Knew You Were Waiting" (Partial)+Interview -Detroit

 

大御所2人の超豪華デュエット音譜

 

文字通り、名曲を絵に描いた曲で当然ヒットしたアップ

 

2人共、既に逝去しているのがとても残念だ

 

ジョージ・マイケル: George Michael、1963年6月25日 - 2016年12月25日[3][4])は、イギリス出身のシンガーソングライター。本名:イェオルイオス・キリアコス・パナイオトゥ(: Γεώργιος Κυριάκος Παναγιώτου、: Georgios Kyriacos Panayiotou)。

 

ポップデュオ「ワム!」での活動で「ウキウキ・ウェイク・ミー・アップ」「ケアレス・ウィスパー」「ラスト・クリスマス」などの世界的ヒット曲を作詞作曲し、ソロシンガーとしてもアルバム『FAITH』が1988年度グラミー賞を受賞するなど成功をおさめた[5]。トータルセールスは1億枚以上。 「Q誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第74位[6]

略歴[編集]

出生[編集]

ギリシャキプロス人の父キリアコス・パナイオトゥ(後に改名してジャック・パノス)(1935〜)と、ユダヤ人の血を引くイギリス人の母レズリー・アンゴールド・ハリソン(1937〜97)との子として、1963年ロンドン郊外のフィンチレー、チャーチ・レーン73番地に産まれる[7][8] 。子供の頃から内気で、自分の中で「ジョージ・マイケル」という架空のヒーローを想像し続け、後に自分がデビューしてから、もう一人の別人格の自分であるとして、「ジョージ・マイケル」を名乗るようになる。

ワム!結成前後[編集]

1975年ブッシー・ミーズ・スクール英語版)に入学し、アンドリュー・リッジリーと出会う。1979年、エグゼクティブ結成(メンバーは、ジョージ・マイケル、アンドリュー・リッジリーの他、アンドリューの兄のポール・リッジリー、デヴィッド・オースティン、アンドリュー・リーヴァーの5人)。複数のレコード会社に売り込むが相手にされず、すぐに解散する。1981年、アンドリュー・リッジリーと「ワム!」を結成、『Wham! Rap』 にてデビューし、数々のヒットを飛ばしたが、才能のあるジョージはソロで活動することを強く希望するようになり、解散が決定する。1986年6月28日ウェンブリー・アリーナにて解散ライブを敢行。以後、ソロ活動を開始する。

ソロシンガーとして[編集]

ワム!時代の中期から無精髭を生やすようになり(初めて生やしたのは1984年末だが、1985年前半はワム!のワールドツアーをしていた関係上、髭は剃り落していた)、ソロ以降はこれがトレードマークとなった。

 

1986年、アレサ・フランクリンのアルバム『Aretha』に参加して「I Knew You Were Waiting (For Me)」をデュエット。この曲は1987年にシングル・カットされて全英・全米チャートの両方で1位を獲得する。

 

1987年、1stアルバム 『フェイス』 発売。記録続きの大ヒットとなる。この時に作った数々の記録として、Faithツアー(1988年)が、アメリカでのその年のヒット商品に選出。“一番セクシーなお尻”(男性部門・1988年)に選出。Billboard アルバム部門年間チャート1位(1988年)。シングル部門年間チャート1位(『Faith』 1988年)。白人アーティストとして初のブラックアルバムレギュラーチャート1位(1988年)。

1988年、2月19日東京日本武道館公演からFaithワールド・ツアーがスタート。

 

1990年、2ndアルバム『LISTEN WITHOUT PREJUDICE VOL. 1』発売。ジョージ本人はアルバムの出来に満足していたが、前作ほど所属レーベルがプロモーションに力を入れなかったこともありアメリカでの売れ行きは低迷し、レーベル会社のソニー・ミュージック(SME)は商業的に前作を下回った為に酷評する。これに怒ったジョージは、「ソニー(SME)はアーティストをアーティストとして扱わない。こんな会社ではクリエイティヴな仕事は出来ない」と、SMEを相手に契約無効を訴える裁判を起こす。本来2枚組になる予定だった『LISTEN WITHOUT PREJUDICE』は、2枚目の制作が間に合わず、先行して1枚をvol.1として発売。ヨーロッパでは、FAITHより多く売れたアルバムである。「Crazyman Dance」、「Happy」など収録予定だったアルバム『LISTEN WITHOUT PREJUDICE VOL. 2』を出す予定だったが、この泥沼化した裁判により、発売が無くなってしまう。後に「Happy」は、エイズチャリティ・アルバム『Red Hot + Dance』に収録して発表。「Crazyman Dance」は、上記『Red Hot+Dance』に提供した新曲「Too Funky」のシングルのカップリングとして発表した。また、このアルバム発売後、ワールドツアー「COVER TO COVER TOUR」を日本より行う。タイトルの示すとおり、ツアーの選曲は半分以上が他のアーティストが歌ったカバー曲で選曲されており、オリジナル曲もワム!時代の曲を織り交ぜたりと、ソロデビュー後の曲は殆ど歌われなかった。カバーの選曲がツアーで廻ったアメリカやヨーロッパでは有名な曲ばかりだったが、日本ではそれらの曲を殆ど知らない客が多かった為、評論家からは酷評された。このツアー以降、本人は「ツアーは行わない」と宣言し、長年ツアーを行っていなかったが、2006年9月よりデビュー25周年ツアーとして25LIVEツアーを行う。ヨーロッパ、オーストラリア、北米で行われた。ロンドンの新しいウェンブリースタジアムのこけら落とし公演はジョージ・マイケルの公演である。

 

2011年8月よりSymphonicaツアーをスタートしたが、ツアー途中の同年10月26日、ウイルス感染症のためロンドンロイヤル・アルバート・ホールでのライブが中止となる。その後回復してツアーを続行していたものの、翌月11月21日、ウイーンでのコンサート開始2時間前に胸の痛みを訴え、その日のライブは急遽中止となる。ウィーン総合病院に緊急入院し、肺炎と診断されたため、以降のツアースケジュールも全て中止となった。

さらに入院後、病状の悪化により意識不明となり、一時は集中治療室に入るなど、重篤な病状であることがマスコミに伝えられる。その後12月21日に退院し、その際の記者会見では、彼の命を救った病院スタッフに対する感謝の意味を込めて病院スタッフを自身のライブに無料招待したいと語るなど、感極まった様子を見せた。また、会見では気管切開を受けていたことも明らかにした。

 

2012年2月21日、ロンドン・O2アリーナで開催された2012年ブリット・アワードにサプライズ出演し、退院後2ヶ月ぶりにライブパフォーマンスを見せるとともに、最優秀ブリティッシュ・アルバム賞を受賞したアデルの紹介にあたってはプレゼンターも務めた。

 

2012年8月12日、ロンドンオリンピック閉会式に出演し「Freedom'90」と「White Light」の2曲を歌った。

 

2014年3月、オリジナルアルバムとしては10年ぶりとなる『Symphonica』をリリース。前述したSymphonicaツアーからの音源を収録したライブアルバムで、プロデューサーを務めたフィル・ラモーン(前年の2013年に死去)にとっては生涯最後のプロデュース作品となるとともに、ジョージ本人にとっても生涯最後の作品、かつ生涯唯一のライブアルバムとなった。

 

2016年12月25日午後、イングランド南部オックスフォードシャー州の自宅で死去。53歳没。死因は、検視官の見解では「拡張型心筋症、心筋炎、脂肪肝の症状が見られた自然死」であった。

私生活[編集]

1998年に公然わいせつの現行犯で逮捕された。"OUTSIDE"のミュージック・ビデオでは、この事件のことを自らパロディにしている。のちにテレビ番組でゲイであることをカミングアウト

慈善活動[編集]

ジョージの死後、彼が生前に慈善活動を匿名で行っていたことが明らかになった。なお、以下の活動は亡くなるまで本人の希望で隠されていた[9]

  • テレビ番組『ディール・オア・ノー・ディール』にて、出演者の女性が不妊治療を受けるために必要な1万5千ポンドを寄付した。
  • あるバーで働いていた借金苦の見知らぬ看護学生に5,000ポンドのチップを渡した。
  • ホームレスのシェルターでボランティアとして活動した。
  • 亡くなった母親を介助した謝礼として、NHSの看護師たちをライブに無料で招待した。
  • テレビ番組『フー・ウォンツ・トゥ・ビー・ア・ミリオネア』で得た賞金をすべてチャリティに寄付した。

 

「Knew You Were waiting / George Michael & Aretha Franklin」