BIG JOE TURNER. Shake, Rattle & Roll. Live 1954 Performance from Rhythm & Blues Revue

JOE TURNER Shake, Rattle and Roll 78 rpm 1954

 

 

オープニングのピアノが心地良い音譜

 

1954年作品ですが、今聴いても とても新鮮アップ

 

ビッグ・ジョー・ターナーの骨太ボーカルも最高ビックリマーク

 

ビッグ・ジョー・ターナー(Big Joe Turner、1911年5月18日 - 1985年11月24日)は、アメリカのブルース・シンガー。身長182cm、体重136キロという巨漢を活かして叫ぶ様に歌う、シャウト・ブルースというジャンルのブルースを作り上げた一人でもある。

彼の代表作、「シェイク・ラトル・アンド・ロール」はロックンロールの定番曲としてビル・ヘイリーを始め多数のアーティストにカバーされた。

来歴[編集]

デビュー前[編集]

ミズーリ州カンザスシティ生まれ。4歳の時に父親が電車事故で亡くなる。教会の聖歌隊に所属し、音楽に興味を持ち始める。

14歳の時に学校を中退し、カンザスシティのクラブで歌手として働き始める。やがて彼は「歌うバーテンダー」として知られ始める。ブギウギ・ピアノの名手、ピート・ジョンソンと出会い、タッグを組む。

1938年、二人の活動に注目したジョン・ハモンドが、ターナーとジョンソンをニューヨークに呼び、「フロム・スピリチュアルズ・トゥ・スウィング (From Spirituals to Swing)」に出演させた。そこで彼らは「ロール・エム・ピート」を演奏し、大きな反響を生んだ。

プロの道へ[編集]

1939年にはヴォカリオン・レコードと契約し、「チェリー・レッド」や「ウィー・ベイビー・ブルース」等を録音する。また、ビリー・ホリデイも出ていたニューヨークの「カフェ・ソサエティ」の常連出演者になる等、プロの道を歩み始める。

1940年デッカ・レコードに移籍、「パイニー・ブラウン・ブルース」を録音する。ジョンソンとだけでなく、ウィリー・'ザ・ライオン'・スミスやフレディ・スラックス・トリオとも一緒にレコーディングした。

1945年に、ナショナル・レコードに移籍。「マイ・ギャルズ・ア・ジョッキー」「アラウンド・ザ・クロック」等を録音。また、アラディン・レコードから「ワイノニー・ハリス」とカップリングで「バトル・オブ・ザ・ブルース」が発売された。

アトランティック・レコードとの出会い[編集]

1951年、カウント・ベイシー・オーケストラとアポロ・シアターで演奏している所をネスヒ、アーメット両名のアーティガン兄弟に注目され、アトランティック・レコードと契約を結ぶ。そこで彼は数々のヒット[注 1]を飛ばす。

ヴァン・'ピアノ・マン'・ウォールズ・アンド・ヒズ・オーケストラとタッグを組み、アトランティックでのデビュー・シングル、「チェインズ・オブ・ラヴ」をリリース。R&Bチャートの2位というスマッシュ・ヒットを記録する。

1954年、チャールズ・カルホーン作の「シェイク・ラトル・アンド・ロール」がR&Bチャートの1位を記録する。黒人だけでなく、10代の白人にも受け入れられる大ヒットとなった。すぐさまビル・ヘイリーがカバーし[注 2]7位を記録する。

デビュー当時からスウィングしてブルースを歌うスタイルは一貫して変えていない。そしてそれはアトランティックにおいても同じだった。その後も「フリップ・フロップ・アンド・フライ」「ハイド・アンド・シーク」等をヒットさせている。1956年発売の「コリーニ・コリーナ」では、ポップチャートの41位を記録する。

しかし、1958年発売の「ジャンプ・フォー・ジョイ」を境に、ターナーはヒットが出せなくなる。

その後[編集]

ターナーは、アトランティックでの絶頂期を終えた後、1960年から1970年代までジャズ歌手に転向する。1966年、当時活動の拠点をアメリカ以外の国に移していたヘイリーが、ターナーをメキシコでスターにするために手助けもしている。

1983年、ターナーはブルースの殿堂入りを果たす。その2年後の1985年11月24日、心臓発作で死去する。74歳だった。

その2年後、ロックの殿堂のパフォーマー部門に認定される。

 

「Shake, Rattle And Roll / Big Joe Turner」