Roy Orbison - In Dreams

Roy Orbison - In Dreams (Black & White Night 30)

 

これまでにロイ・オービソンを更新した回は、下記です。

 

 

2番目のYoutube、LIVEでも美声が全く変わらないところが

ロイ・オービソンの最大の魅力音譜

晩年もずっとそうだった。

 

私は53歳ですが、ロイ・オービソンは僅か52歳で亡くなっている。

 

このIn Dreamsは、1986年に映画でも取り上げられている。

 

ロイ・ケルトン・オービソンRoy Kelton Orbison1936年4月23日 - 1988年12月6日)は、アメリカ合衆国テキサス州ヴァーノン出身のシンガーソングライター。故郷でのタレント活動などを経て1955年にレコード・デビューし、伸びやかなファルセットが特徴的な歌声とロカビリー調の楽曲で、1960年代前半から中盤にかけて大きな成功を集めた。1980年代には、ジョージ・ハリスンジェフ・リンによる覆面プロジェクト「トラヴェリング・ウィルベリーズ」のメンバーとしても活動した。代表曲に、「オー・プリティ・ウーマン」「ブルー・バイユー」「オンリー・ザ・ロンリー」などがある。愛称は、ビッグ・オーThe Big O)。

 

ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第13位[2]

 

ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第37位。

 

Q誌の選ぶ歴代の偉大な100人のシンガー」において第23位[3]

 

父親の手ほどきでギターを習得し、幼少の頃から地元のラジオやテレビ番組などに出演していた。高校時代に結成していたバンド、ティーン・キングスでの手腕がバディ・ホリーのプロデューサーだったノーマン・ペティに見出され、1955年にシングル「ウービィ・ドゥービィ」でデビュー。その後、1956年から1959年にかけてサン・レコードとRCAビクターエルヴィス・プレスリーの後釜的存在として活動し、数枚のシングルを発表したが、ヒットには恵まれなかった。

 

しかし、1959年にモニュメント・レコードへ移籍してからは運気が好転し、一転してヒット曲を連発。在籍していた1959年から1965年にかけて、全米と全英のトップ10チャートにそれぞれ9曲、10曲のシングルを送り込んだ。

その中でもとりわけ1964年に発表された「オー・プリティ・ウーマン」は全米・全英チャートで共に1位を獲得し、全世界で400万枚のセールスを記録する大きな成功を収めた。同曲は、1982年にヴァン・ヘイレンによってカバーされて全米トップ20内にランクインするリバイバルとなり、1990年にはゲイリー・マーシャル監督の映画『プリティ・ウーマン』の主題歌として大きな注目を集め、オービソンの数あるヒット曲の中では最も有名な作品となっている。

1963年には、当時ブレイクしたばかりのビートルズとのジョイント・ツアーを敢行。以降は、本国のアメリカ以上にイギリスで大きな人気を集め、それは後年まで安定したものとなった。

 

しかしながら、モニュメント・レコードを離れてメトロ・ゴールドウィン・メイヤーに在籍した1960年代後半以降の活動は不調が続いた。さらに、1966年に妻がオートバイの事故で死去し、2年後には火事で息子のうち2人を失うなど[4]、同時期はプライベートでも大きな悲劇に見舞われている。

そんな状況にありながら、1967年にはオービソンの主演映画『The Fastest Guitar Alive』が公開されている[5]。そして1969年、オービソンはバーバラと再婚した[4]

 

アサイラム・レコードで活動していた1970年代もヒット曲には恵まれなかったが、同時期はリンダ・ロンシュタットの「ブルー・バイユー」や先述のヴァン・ヘイレンの「オー・プリティ・ウーマン」など、他のアーティストによる過去のヒット曲のカバーがヒットチャートを賑わせた。また、自身も1980年にエミルー・ハリスとのデュエット曲「ザット・ラヴィン・ユー・フィーリン・アゲイン」がグラミー賞を受賞するなど、絶好調とはいかないまでも着実な成果もあげている。

また、1986年には「イン・ドリームス」が、映画監督デヴィッド・リンチによる『ブルーベルベット』において、ストーリーと密接に関係した形で非常に重要な扱いで取り上げられる。同監督は、後に2001年の『マルホランド・ドライブ』においても、やはりオービソンの「クライング」をフィーチャーしている(ただし、オービソンによるオリジナルではなく、レベッカ・デル・リオによるスペイン語歌詞のアカペラバージョン)。

 

その後は、ヴァージン・レコードで地道な活動を続けたオービソンは、デビューから32年後の1987年にロックの殿堂入りを果たす[6]。同年9月にアンバサダーホテルのクラブ「ココナッツ・グルーヴ」で行われたステージでは、エルヴィス・コステロブルース・スプリングスティーントム・ウェイツなどといった豪華な顔ぶれと共に演奏し、ベテランとしての貫禄を大衆にアピールした。その時の模様は、後にライヴ・アルバム『ブラック・アンド・ホワイト・ナイト』としてリリースされた。

 

翌1988年には、ジョージ・ハリスンジェフ・リンによって結成されたスーパーバンド「トラヴェリング・ウィルベリーズ」にボブ・ディラントム・ペティとともに参加。

メンバーがそれぞれ変名を名乗ったこのバンドにおいて、オービソンは「レフティ・ウィルベリー」という偽名で参加した。ウィルベリーズのアルバム『トラヴェリング・ウィルベリーズ Vol.1』は全米のビルボードのアルバムチャートでトップ10以内にランクインする大ヒットを記録し、このアルバムの成功によって、彼は久々にミュージック・シーンの第一線にカムバックすることとなった。しかしその矢先の同年12月6日、オービソンは心筋梗塞のため急逝。52年の短い生涯に終止符を打った。

 

 

「In Dreams / Roy Orbison」