JACKSON BROWNE - Somebody's Baby (Live 1982)

 

 

ジョン・メレンキャンプ、ブルース・スプリングスティーンと共に、

歌詞が味わい深いジャクソン・ブラウン。

 

ただ、まさかジャクソン・ブラウンが青春映画の主題歌を歌うとは想像も出来なかったが爆弾

 

私がジャクソン・ブラウンを知ったのは、

フジテレビ深夜番組「丸井サウンド・ロフト」。

岡部マリさんがジャクソン・ブラウンを紹介した時であった。

 

私がどのアーティストよりも、最もリスペクトしているアーティストです。

 

ジャクソン・ブラウン(Jackson Browne, 1948年10月9日 - )は、ドイツ出身、アメリカ合衆国ロサンゼルス育ちのミュージシャンシンガーソングライター

 

米西海岸を代表するフォークシンガーとして知られる。2004年ロックの殿堂』入り。支持政党は民主党

 

生まれは西ドイツハイデルベルクであるが、1951年に家族でロサンゼルスに移住している。父親はピアノ弾きをしていたため、家ではいつも音楽が流れているような環境だった。また、あまり知られていないが弟のセヴェリンも音楽活動をしている。ブラウンにピアノを教えたのも彼であり、ブラウンは彼のことを「僕の音楽のヒーロー」と呼んでいる。66年、彼はニッティ・グリッティ・ダート・バンドに加入しゴールデン・ベアで演奏、ダート・バンドは後にブラウンの曲をカバーしている[1]

 

1967年10月、ニコのデビュー・ソロ・アルバム『Chelsea Girl』に「青春の日々(These Days)」が収録される。

以来、イーグルスニッティー・グリッティー・ダート・バンド、トム・ラッシュなどが作品を取り上げ、デビュー前からその名は広く知られていた。

 

1972年アサイラム・レコードからアルバム『ジャクソン・ブラウン・ファースト』でメジャー・デビューを果たす。同アルバムに収録されている「ドクター・マイ・アイズ」は、全米シングル・チャート第8位のヒットとなった。

 

以後、1974年レイト・フォー・ザ・スカイ』が14位、1976年プリテンダー』が5位、1978年孤独なランナー』が3位と着実にチャート成績を伸ばし、1980年にリリースしたアルバム『ホールド・アウト』で初の全米チャート1位を獲得する。

1970年代のブラウンの作品は、日々の生活の中で感じる苦悩や葛藤、心の痛みなどを歌っており、同世代の人々から高い支持を得た。作詞家としての評価も高く、ローリングストーン誌から「1970年代で最も完成された作詞家」と評された。

 

1982年、映画『初体験/リッジモント・ハイ』のサウンドトラックに提供された「誰かが彼女を見つめてる(en:Somebody's Baby)」が全米7位となるヒットを記録(ブラウンのオリジナル・アルバムには未収録)。

 

1983年にはアルバム『愛の使者』をリリース。アルバム・タイトル曲でもある「愛の使者」は、当時のレーガン政権下で右傾化するアメリカを皮肉った内容であった。ブラウンは非常にリベラルな政治思想の持ち主で、民主党の熱心な支持者としても有名である。

それ以降、1986年『ライヴズ・イン・ザ・バランス』、1989年『ワールド・イン・モーション』と徐々に政治的な内容を多く含む曲を発表するようになる。音楽的な評価は高かったが、セールスには結びつかなかった。

 

また、1979年スリーマイル島原子力発電所で起きた放射能漏れ事故に抗議するイベント「ノー・ニュークス」を企画したり、1985年には当時ブルース・スプリングスティーンEストリート・バンドに在籍したスティーヴ・ヴァン・ザントが、南アフリカ共和国人種隔離政策が続くことに抗議するために企画したチャリティ・シングル「サン・シティ」およびアルバム『サン・シティ』に参加している。日本では、1986年に行われたチャリティ・コンサート「ジャパン・エイド」に参加した。レコード制作を通して社会的な発言を行うだけではなく、実際に様々な行動を起こして積極的に活動している[2]

 

2017年10月、デビュー45周年を記念した来日公演を開催[5]

 

「Somebody's Baby / Jackson Browne」