Carl Perkins - Blue Suede Shoes - Perry Como Show -1956

 

 

長きに渡って活躍したカール・パーキンス音譜音譜

 

特にジョージ・ハリソン、エリック・クラプトンとのジョイント・コンサートが印象に残っていますビックリマーク

 

Carl Perkins, George Harrison, Eric Clapton - Medley - 9/9/1985 - Capitol Theatre (Official)

 

 

カール・リー・パーキンス(Carl Lee Perkins、1932年4月9日 - 1998年1月19日[1])は、アメリカ合衆国ロカビリー・ミュージシャン。1954年より主にテネシー州メンフィスにあるサン・レコード・スタジオでレコーディングしていた。

 

初期ロックンロールの立役者としてエルヴィス・プレスリーらとともにサン・ミュージックの黄金期を飾ったうちの一人である。代表曲には『ブルー・スエード・シューズ』、『マッチボックス』、『ハニー・ドント』などがある。

 

チャーリー・ダニエルズは「カール・パーキンスの曲はロカビリーの時代の象徴であり、彼のサウンドこそが本物のロカビリーである。なぜなら彼はずっと変わらないから」と語った[2]。パーキンスの曲はエルヴィス・プレスリービートルズジミ・ヘンドリックスジョニー・キャッシュなど影響力のあるアーティストおよび友人たちにカヴァーされ、彼のポピュラー・ミュージックでの地位を確固たるものにした。ポール・マッカートニーは「もしもカール・パーキンスがいなかったら、ビートルズは存在しなかった」と語った[3]

 

「ロカビリー界の王」と呼ばれ、ロックの殿堂ロカビリーの殿堂ナッシュヴィル作曲家の殿堂に殿堂入りし、グラミー殿堂賞を受賞した。

 

2011年、「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」において第88位。

 

エルヴィスの音楽性に自分達を重ね合わせたパーキンスは、対抗意識を燃やし[要出典]メンフィスサン・レコードを訪ねる。幾たびか売り込みに通い[要出典]、ようやくオーディションを受けられる事になる。1954年10月上旬、サン・レコードでサム・フィリップスにオーディションされ、パーキンスが10代の時に既に作っていた『Movie Magg 』他数曲披露し[要出典]、合格した。1955年3月19日、『Movie Magg 』でデビューし[27]、B面の『Turn Around 』が地域的にヒットした[1]。南部および南西部のラジオでこの曲が流され、パーキンスはアーカンソー州マリアナ、ウエスト・メンフィスでプレスリーと共演することになった。プレスリーおよび自分の観客についてパーキンスは「叫んでいる観客の前に登場しようとしたが、観客達はプレスリーの登場を待ち望んでいた。それはまるで爆発物のようだった。世界中がロック一色になったようだった」と語った[28]

 

1955年10月、サン・レコードから発表された[30]Gone Gone Gone 』[31][32]が地域的にヒットした。この曲はカントリーとリズム・アンド・ブルースの風味豊かなバウンス・ブルースであった[33]。この曲は古典的な『Let the Jukebox Keep On Playing 』のB面で、フィドル、ウエスタン・ブギのベース、スティール・ギター、涙をそそる歌声で構成された[34]

 

1955年秋、パーキンスはあるダンサーがデート中にスエードの靴に傷がついて怒っているのを目撃し[36]、『ブルー・スエード・シューズ』を作曲した[5]。数週間後の1955年12月19日、パーキンスとバンドのメンバーはメンフィスのサン・スタジオでセッション中にこの曲をレコーディングした。フィリップスの提案で歌詞を「Go, cat, go 」から「boogie vamp 」に変更した[37]1955年11月、プレスリーがステップアップを求めてサン・レコードを離れRCAレコードに移籍し、1954年終盤からパーキンスのレコーディングを担当していたフィリップスはパーキンスに「カール・パーキンス、今君が私のロカビリー・キャットだ」と語った[38]

サン・レコードは、プレスリーに続く看板アーティストとしてパーキンスに白羽の矢を立て、ロカビリー・シンガーとして売り出した。1956年1月1日、『ブルー・スエード・シューズ』が発表され、大ヒットした。アメリカでは『ビルボード』誌のカントリー・チャートで第1位(彼にとって唯一の第1位)、ポピュラー・チャートで第2位を獲得した。3月17日、パーキンスはカントリー・ミュージシャンとして初めてリズム・アンド・ブルース・チャートで第3位を獲得した[37][39]

その夜、ABCの『Ozark Jubilee 』でテレビ・デビューし、この曲を演奏した。

 

イギリスではこの曲は第10位にランクインした。サン・レコード所属アーティストで100万枚売り上げた最初の曲となった。B面の『ハニー・ドント』はビートルズ[5]ワンダ・ジャクソンT・レックスにカヴァーされた。ビートルズ版でジョン・レノンがリードだったが、後にリンゴ・スターになった。レノンは『Lost Lennon Tapes 』でもこの曲を演奏した[39]

 

1981年、元ビートルズのポール・マッカートニーと共に『ゲット・イット』をレコーディングし、パーキンスは歌とギターで参加した。この曲は1982年のヒット・アルバム『タッグ・オブ・ウォー』に収録された[68]。またこの曲はややアレンジされ、シングルカットされたアルバムのタイトル曲のB面にも収録された。またこの曲はパーキンスがマッカートニーと共に作曲したとされる[69]。自然発生したパーキンスの笑い声で曲はフェイドアウトする。

 

1985年ジョージ・ハリスンエリック・クラプトンデイヴ・エドモンズ、リー・ロッカー、ロザンヌ・キャッシュ、リンゴ・スターおよびパーキンスは、ロンドンにあるライムハウス・スタジオで『ブルー・スエード・シューズ: ア・ロカビリー・セッション』なるテレビの特別番組を収録した。1986年1月1日、チャンネル4で放送された。パーキンスは16曲およびアンコール2曲を演奏した。パーキンスとその友人達は最後に作曲されてから30年以上経ったパーキンスの著名な曲を演奏し、パーキンスは涙を流した。この特別なコンサートはパーキンスの後年のキャリアの記念すべきできごとの1つとされ、パーキンスと著名なゲストにより行なわれたこの活気ある演奏はファン達を大きく喜ばせた。

2006年、スナッパー・ミュージックよりDVDが発表された[70]

 

1996年、ジョージ・ハリスン、ポール・サイモンジョン・フォガティトム・ペティボノが参加したパーキンスの最後のアルバム『Go Cat Go! 』がBMGのインディーズ系ダイナソー・レコードから発表された[72][73]

 

1997年9月15日ロイヤル・アルバート・ホールで行われた『モントセラト島救済コンサート』がパーキンスの生前最後のコンサートとなった。

 

「Blue Suede Shoes / Carl Perkins」