I'M SO LONESOME I COULD CRY (1949) by Hank Williams
ハンク・ウイリアムスがいなければ、のちのカントリーやギター・サウンドも生まれなかった。
とても重要な人物です
しかし、あまりにも早い29歳での死
疑惑もあり、謎に包まれた最期でした。
ハイラム・キング・ウィリアムズ(Hiram King Williams、1923年9月17日 - 1953年1月1日)は、ハンク・ウィリアムズ[注 1](Hank Williams)の名で知られるカントリー音楽の歴史において最も重要な人物のひとりと見なされている、アメリカ合衆国のシンガーソングライター、音楽家。1947年から、29歳で亡くなった1953年の最初の日までの短い間に、ウィリアムズは、「ビルボード」のカントリー&ウェスタン・チャートにおいて、1位になった11枚を含め、トップ10入りした35枚のシングル盤を録音した(このうち5枚は、ウィリアムズの死後にリリースされた)。
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第27位[4]。
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第74位。「Q誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第59位[5]。
ハンクの父イロンゾ・ウィリアムズ(Elonzo Williams)は、鉄道会社に勤め、しばしば異動があり、一家はアラバマ州南部の数カ所を転居した。父イロンゾが病気で8年間入院することになり、その間に残された家族は自活を余儀なくされた。幼いハンクは、二分脊椎症のために健康を害していたが、母と姉の手伝いをした。アラバマ州ジョージアナ(Georgiana)に住んでいたときに、ハンクはルーファス・"ティー=トット"・ペイン(Rufus "Tee-Tot" Payne)という黒人の路上演奏者に出会い、食事の提供と交換にギターを習った。ペインはハンクの後の音楽のスタイルに大きな影響を与えた。この頃、ハンクは、非公式にだが名前をハイラムからハンクへと改めた。その方がカントリー音楽らしいと思ったのである。
アラバマ州モンゴメリーに住んでいたとき、ティーンエイジになっていたハンクは、地元のラジオ局WSFAのスタジオ前の歩道で、ギターを弾きながら歌っていることがよくあった。首尾よくWSFAのプロデューサーたちの関心を引くことができたハンクは、1937年から、15分番組で歌と司会を務めるようになった。バックを務めるバンドとして結成したザ・ドリフティング・カウボーイズは、ハンクの母リリーがマネジメントを引き受けた。ハンクは学校を辞め、全ての時間を使って音楽の仕事に打ち込んだ。
1941年、第二次世界大戦に合衆国が参戦すると、バンドのメンバーの数人が徴兵されてしまう。二分脊椎症のために徴兵されなかったハンクは、代わりのメンバー探しに手こずった。このことと、健康の問題に自分なりに対処しようとして飲み始めた酒の問題が大きくなり、やがてWSFAはハンクを解雇した。1943年、ハンクはオードリー・シェパード(Audrey Sheppard)と結婚し、彼女はステージでハンクとデュエットで歌うとともに、マネージャー役を果たすようになった。スターリング・レコード(Sterling Records)から「Never Again」と「Honky Tonkin'」を出した後、ハンクはMGMレコード(MGM Records)と契約を結んだ。
1948年、ハンクは「Move it on Over」をリリースし、ヒットとなった。この年、ハンクは、当時ラジオ番組だった『ルイジアナ・ヘイライド』に出演するようになった。1949年には「Lovesick Blues」をリリースし、これによって音楽界の主流の仲間入りをする。やがて、最初は断られた『グランド・オール・オプリ』への出演も実現した。1948年から1953年までの間に、ハンクは11曲を(「ビルボード」のカントリー&ウェスタン・チャートの)1位に送り出したが、楽譜の読み書きはほとんどできなかった。ハンクのヒット曲には、このほか、「Your Cheatin' Heart」、「Hey Good Lookin'」、「I'm So Lonesome I Could Cry」などがある。
ハンクは、思わしくない背中の状態に由来する痛みを和らげるため、アルコールやモルヒネをはじめ、様々な鎮痛剤を服用していたが、1952年には、それが私生活でも、職業生活においても問題を引き起こすようになっていた。ハンクは、何度も深酒で酩酊し、そのために離婚し、『グランド・オール・オプリ』から解雇された。1953年1月1日、コンサートへ赴く途中、ハンクは医師にビタミンB12とモルヒネの混合液を注射してもらったが、既にアルコールと抱水クロラールを摂取していたこともあって、致命的な心臓発作に見舞われ死亡した。まだ29歳と短い人生ではあったが、ハンク・ウィリアムズはカントリー音楽に多大な影響を残した。
ハンク・ウィリアムズの曲は、他の数多くの歌手たちによっても録音され、ポップ、ゴスペル、ブルース、ロックなど様々なスタイルでヒットした曲も多かった。ハンクの曲をカバーした歌手たちの例としては、ウィリー・ネルソン、タウンズ・ヴァン・ザント(Townes Van Zandt)、ボブ・ディラン、レナード・コーエン、ケイク、ケニー・ランキン(Kenny Rankin)、ベック・ハンセン、ジョニー・キャッシュ、トニー・ベネット、ザ・レジデンツ、パッツィ・クライン、レイ・チャールズ、ルイ・アームストロング、トム・ウェイツなどが挙げられる。ハンク・ウィリアムズは多数の栄誉に輝いており、ロックの殿堂入りも果たしている。
1951年、テネシー州で狩猟の旅に出ていたとき、古傷であった背中の痛みが再発し、ハンクは痛みを和らげようと、再び鎮痛剤(モルヒネを含む)を服用し、アルコールを摂取するようになった[17]。1952年になると、ハンクのアルコール依存症は一層悪化していき、8月11日には、繰り返し酩酊状態で現れたことを理由に『グランド・オール・オプリ』をクビになってしまった。ハンクは、KWKHの『Louisiana Hayride』に復帰し、この番組のためにツアーを再開した。ハンクの演奏は彼が素面のときには賞賛されたが、仕事仲間たちが彼を素面で舞台に上げようと努めたにもかかわらず、過剰な飲酒によって公演に現れなかったり、酷い演奏しかできないことが、しばしば起こった。1952年9月23日に行なわれた、レコーディング・セッションでは「Kaw-Liga」、「Your Cheatin' Heart」、「Take These Chains from My Heart」が録音されたが、これが彼の最後のレコーディングとなった[25]。ハンクの行き過ぎた状態に、フレッド・ローズは仕事の協力を止めてしまった。ザ・ドリフティング・カウボーイズも、この頃にはレイ・プライス(Ray Price)のバックを務めており、ハンクは各地で地元のバンドに伴奏を求めていた。1952年の年末には心臓も患うようになっており[17]、痛みを緩和するために、強力な抗不安薬である抱水クロラール(睡眠薬の一種)を、ホレース・ラフォル・"トビー"・マーシャル医師(Dr. Horace Raphol "Toby" Marshall)に処方されていた[26]。
1952年12月31日、ハンクはウェストバージニア州チャールストンの市立公会堂で演奏する予定になっていた。前売り券は3,500ドルを売り上げていた(2011年の価値では29,092ドル程度(およそ240万円)に相当する[12])。ところが、ナッシュビル周辺でいわゆる氷嵐(ice storm:雨氷を生じる着氷性の雨をともなった嵐)が発生し、飛行機での移動ができなくなったため、ハンクはチャールズ・カー(Charles Carr)という大学生を運転手に雇い、車でコンサート会場へと向かった。しかしチャールズは、途中のテネシー州ノックスビルから公会堂に電話を入れ、氷嵐のために約束した時間には間に合わないこと、既にハンクからは、翌日の新年元日コンサートが予定されているオハイオ州カントンへ向かうよう指示されていることを知らせた[26]。
ハンクは、ノックスビルのアンドリュー・ジョンソン・ホテル(the Andrew Johnson Hotel)に午後7時8分に到着し、ロビーですぐに2人分のステーキを注文した。彼はまた、自分のために医者を呼ぶよう求めた。モンゴメリーからノックスビルまでの途上で、彼は抱水クロラールとアルコールを摂取しており、その飲み合わせの影響を感じていた。カードウェル医師(Dr. P.H. Cardwell)は、ハンクにビタミンB12を2本注射したが、それには1/4グレーン(16ミリグラム)ほどのモルヒネが配合されていた。チャールズとハンクは同日午後10時45分ころにチェックアウトした。ホテルのポーターたちは、咳としゃっくりを続けるハンクを抱え、車まで運ばなければならなかった。やがて州境を越えてウェストバージニア州に入り、ブルーフィールドに到着したところで、チャールズはレストランで車を停め、ハンクに食事をするか尋ねた。ハンクは、いらないと答えたが、これが彼の最後の言葉だと信じられている。チャールズはそのまま車を進め、ウェストバージニア州オーク・ヒル(Oak Hill)の給油所に立ち寄った際に、ハンクが後部座席で寝込んでいるのに気がついたが、呼んでも応答はなく、身体は硬直し始めていた。チャールズはハンクの脈を確かめ、既に絶命していることを確認した。彼は給油所のオーナー、グレン・バーデット(Glenn Burdette)にこれを知らせ、地元の警察長 O・H・ステイミー(O.H. Stamey)が呼ばれた。死体が関わっていたため、ステイミーは無線担当の警官ハワード・ジャニー(Howard Janney)も呼び寄せた[27]。ステイミーとジャニーは、キャデラック・コンバーチブルの車内に、空のビール缶数個と、未録音曲の手書きの歌詞を発見した[7]。
ウィリアムズは、11曲(「Lovesick Blues」、「Long Gone Lonesome Blues」、「Why Don't You Love Me」、「Moanin' the Blues」、「Cold, Cold Heart」、「Hey Good Lookin'」、「Jambalaya (On the Bayou)」、「I'll Never Get Out of This World Alive」、「Kaw-Liga」、「Your Cheatin' Heart」、「Take These Chains from My Heart」)をチャートの首位に送り込み、さらに多くのトップ10入りしたヒット曲を残した[44]。
「I'm So Lonesome I Could Cry / Hank Williams」