Smokey Robinson & The miracles live - You really got a hold on me
Smokey Robinson & The Miracles - You Really Got A Hold On Me
モータウンの副社長として長く活躍した生ける伝説 スモーキー・ロビンソン
今回は彼のグループ、スモーキー・ロビンソン&ザ・ミラクルズを取り上げました
スタンダード・ナンバーとして有名な曲です
スモーキー・ロビンソン(William 'Smokey' Robinson, Jr.、1940年2月19日 - )は、アメリカのミュージシャン。
名門レーベル、モータウンの設立に参加し、長く副社長を務めた。ブラックミュージック界の大御所である。
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」においてスモーキー・ロビンソンが第20位[1]。
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」においてザ・ミラクルズが第32位にランクインしている。
「Q誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第95位[2]。
ミシガン州デトロイト出身。1955年にハイスクールの友人らとミラクルズの前身となる「マタドールズ」というコーラス・グループを結成する。
やがてスモーキーは後に作曲家のベリー・ゴーディー・ジュニアの目に留まり、ザ・ミラクルズは1959年にゴーディーが設立したタムラ=モータウン・レコードの契約アーティスト第1号となった。1960年、スモーキーとゴーディーが共作した「ショップ・アラウンド」がR&Bチャートの1位に輝く。1962年末に発表された「ユーヴ・リアリー・ゴッタ・ホールド・オン・ミー」もR&Bチャート1位を獲得し、この曲はビートルズにもカヴァーされた。1963年、「ミッキーズ・モンキー」もヒット。
スモーキーはミラクルズでの歌手活動だけでなく、作曲家としてもテンプテーションズ、フォー・トップス、マーヴィン・ゲイら所属アーティストに多くの楽曲を提供、1961年からは副社長の肩書きを得てゴーディーと二人三脚でモータウンをもり立てていく。その詞曲のクオリティーの高さは、ボブ・ディランがスモーキーを「現代アメリカ最高の詩人」と評したほどであった。
1965年6月発売の「トラックス・オブ・マイ・ティアーズ」がヒット。同年11月発売のアルバム『Going to a Go-Go』からグループ名を「スモーキー・ロビンソン&ザ・ミラクルズ」に変更。
12月にシングルカットした「ゴーイング・トゥ・ア・ゴー・ゴー」は後にローリング・ストーンズにカヴァーされた。
1967年発表の「涙のクラウン」は1970年に再ヒットし、ついに初の全米チャート1位の完全制覇を成し遂げた。
スモーキーは1972年にグループを離れ、ソロ活動を始める。ソロとしても「クワイエット・ストーム」、「クルージン」のヒットを出す傍らモータウン副社長の業務も続けた。一方、ミラクルズはスモーキーの後任のリード・シンガーとしてビリー・グリフィンを迎え、「ドゥ・イット・ベイビー」や、1976年の「ラヴ・マシーン」(全米1位)などのヒットを放っている。
1981年には「ビーイング・ウィズ・ユー」が全米ビルボード誌2位[3]、全米キャッシュボックス誌1位、全英1位となった。(「クルージン」に引き続き2年連続でビルボード誌2位、キャッシュボックス誌1位という結果に終わった。ソロ名義ではついにビルボード誌だけが1位を取れなかった。)
1985年にはUSAフォー・アフリカに参加し、「ウィ・アー・ザ・ワールド」のコーラスを担当。
1987年のシングル曲「ジャスト・トゥ・シー・ハー」は全米8位を記録し、ロビンソンはこの曲でグラミー賞最優秀男性R&Bボーカル・パフォーマンス賞を受賞した[3]。1988年にはケニー・Gのアルバム『シルエット』にゲスト参加するが、同年にモータウンがMCAレコードに売却されると1990年に会社を離れ、しばらくの間表舞台から遠ざかっていた。1999年にモータウン・レーベルに復帰し、現在も活動を続けている。
2014年にランディ・ジャクソンをプロデューサーに迎えたセルフカバーアルバム『Smokey & Friends』をVerveからリリース。エルトン・ジョン、スティーヴン・タイラー、ニコール・シャージンガー(プッシーキャット・ドールズ)、ミゲル、アロー・ブラック、JC・シャゼイ、ジェシー・J、ジョン・レジェンド、シーロー・グリーン、メアリー・J.ブライジ、ジェームス・テイラー、シェリル・クロウ、レデシー、ゲイリー・バーロウ(テイク・ザット)が参加してスモーキーとデュエットをしている。