Ray - What'd I Say (movie scene)
Ray Charles - What'd I Say LIVE
Ray Charles - What'd I Say (1959)
レイ・チャールズ、この素晴らしいピアノ演奏が盲目とは全くもって凄すぎる
youtubeで「Ray」と検索すると、
真っ先に出てくる「Ray Charles」
スティービー・ワンダーにしてもそうだが、
本当に努力の人だと思う。
並々ならぬ努力をして、この上手さを発揮したんだと思う。
感動します
レイ・チャールズ・ロビンソン(英語: Ray Charles Robinson、1930年9月23日 - 2004年6月10日)は、アメリカ合衆国・ジョージア州オールバニ出身のシンガーソングライター、ピアニスト。
盲目というハンディを背負いながらも、R&Bやジャズ、ブルース、ゴスペルなどのブラックミュージックを、自らのルーツを再発見するような音楽活動の中で、「ソウルミュージック」を創った人物として評価が確立されている。カントリー・ミュージックの曲もカバーした。ピアノを弾きながら歌う姿が有名であるが、サックスをプレイすることもあった。
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第2位[4]、「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第10位[5]、
「Q誌の選ぶ歴代の偉大な100人のシンガー」において第24位[6]にランクインした。
6歳の頃、仲の良かった弟のジョージ・ロビンソンを亡くした。その9か月後、緑内障のために失明した。目が見えないというハンディを背負いながらもピアノを学び、また盲学校に通う。1947年にシアトルに移り、この頃クインシー・ジョーンズと出会う。初期の頃はレイ・ロビンソンの名で活動、音楽もトリオ編成のバンドに参加したが、この頃から薬物使用の悪癖も始まってしまう。後に同名のボクサーがいるため、ミドルネームのレイ・チャールズに改名。彼は1948年には当時15歳だったクインシー・ジョーンズと友人になっている[7]。
レイの最初の全国ヒットは1949年で、「コンフェッション・ブルース」が早くもR&Bチャートで2位まで上昇するヒットとなった。
自己バンドでツアーを行っているうちに、アトランティック・レコードから声を掛けられ契約する。
1959年の「ホワッド・アイ・セイ」がBillboard Pop 100で6位に昇る大ヒットとなった[8]。
聖なるゴスペルと俗世間の音楽であるR&Bを融合していたことから、信心深いクリスチャンからは非難された。また頭のかたいジャズ評論家の中にはレイの曲を「ただばか騒ぎしているだけじゃないか」と揶揄する者もいた。
1959年に、アトランティックとの契約切れを期にABCレコードと契約、1961年に代表曲の一つとなる「我が心のジョージア」を発表、ミリオンセラーを記録した。その他にも「旅立てジャック」(Hit The Road Jack、1961)「ワン・ミント・ジュレップ」 (1961)「愛さずにはいられない」(1962)「アンチェイン・マイ・ハート 」(1962)「太陽は燃えている」[9](1964)などのヒットを出し続けた。
チャールズはジョージア州が行う黒人差別に反対し、同州でのコンサートをキャンセルしたため、州はチャールズを追放していたが、1979年4月24日、ジョージア州議会は追放を撤廃、『Georgia On My Mind (わが心のジョージア)』を「正式な州歌」と定めた。1980年には映画『ブルース・ブラザース』(1980年)に楽器店店主の役で出演し、『Shake Your Tailfeather』を演奏している。また1985年にはUSAフォー・アフリカに参加し、ウィ・アー・ザ・ワールドのブリッジ部分でリードボーカルをとった。
2004年に、テイラー・ハックフォード監督の伝記映画『Ray/レイ』が公開され、アカデミー音響賞、主人公のジェイミー・フォックスはアカデミー主演男優賞を受賞した。製作中に、撮影現場で演技指導を行った際に、ジェイミーのあまりの演技力から君は俺の後継者だよと賞賛の言葉を送った。
しかし、2004年6月10日に肝臓癌で死去。73歳だった。完成された映画を観ることは出来なかった。
また、彼をリスペクトするアーティストによる「音楽葬」が行われたことも話題となった。2005年2月13日、第47回グラミー賞授賞式では、ノラ・ジョーンズとのデュエット曲「ヒア・ウィ・ゴー・アゲイン」が最優秀レコード賞となったほか、最優秀アルバム、ポップス・ボーカルやゴスペルなど、計8部門で受賞した。
「What'd I Say / Ray Charles」