1986 F1 第15戦 メキシコGP(ベルガー初優勝)

 

 

1987 オーストラリアGP F1

 

 

1988 イタリアGP F1

 

1989 サンマリノGP F1

 

 

1989年 Formula1 R13 ポルトガルGP

 

 

ナイス・ガイ、ゲルハルト・ベルガーがとても好きでした音譜

 

5番目のYoutube「1989F1サンマリノGP」では炎に包まれ、

本当にびっくりしましたが、見事に復帰し、

同年の1989年ポルトガルGPで5勝目を挙げ、感動しましたビックリマーク

 

高速コースで本領を発揮する印象もありましたが、

1987年オーストラリアGP、中速コースにおいても実績がありましたアップ

 

wikipediaで記載があります通り、

強いリーダーシップを取ったこともまた彼の魅力の一つでした。

 

「また、それ以上にコース外での活動も人々の耳目を集めた。第3戦サンマリノGPにて、予選2日目にローランド・ラッツェンバーガー、翌日の決勝日にセナが事故死[9]したことを受け、2週間後の第4戦モナコGPにて、それまで有名無実化していたドライバーによる組合GPDA(グランプリ・ドライバーズ・アソシエーション)を復活させ、その重鎮として、安全面についてFIAとの間にドライバー側からも積極的に話し合いを持つことを提唱した。」

 

ゲルハルト・ベルガー(Gerhard Berger、1959年8月27日 - )は、オーストリアチロル州ヴェルグル出身の元F1ドライバー。英語読みの「ガーハード・バーガー」等の表記がなされることもある。愛称は「ガーディ」。

 

明るい性格で知られ、人望を集めレース界内外で多くの友人を持つ。F1界に友人が少ないことで知られていたアイルトン・セナとも、最大の親友とされる。

 

印象に残る状況での勝利が多いことから「記録よりも記憶に残るドライバー」の一人として名前が挙がる。かつては「Rの付く月にしか勝てない(5月から8月には勝てない)ドライバー」といった異名もあった。またF1ドライバーとしてキャリアは13年と比較的に長く、グランプリには通算210戦出走した。これは彼が引退した1997年当時、リカルド・パトレーゼの256戦に次ぐ歴代2位の記録だった。

 

現役時代はプレイボーイとしても知られ、女性のファンも多かった。

 

故郷のヴェルグル村にある実家は、父親が大理石を欧州各国に陸送する運送会社「ベルガー運送」(社員6人、トラック6台の小さな会社だった)を経営しており、父はベルガーにこの家業を継いでほしいと考えており、まだ学生だった頃から会社の経営を手伝うようになった[1]。ヴェルグル村にモーターレーシングの環境は無かったが、村に2人だけ週末に趣味でヒルクライムラリー競技をやっている人物がおり、その車を組み上げる作業を飽きることなく見物している少年だったベルガーは、この見物をしていた時がレースをやってみたいと思った最初だったという[1]

 

「ベルガー運送」の事業拡張に没頭していた1982年の終わりころ、それまで直接面識のない人物がベルガーを訪ねてきた。1971年のル・マン24時間レースウィナーであり、地元オーストリアの有望な若手レーサーを発掘、育成を手掛けるようになっていたヘルムート・マルコがやってきて、「君は来年(1983年)、ヨーロッパF3選手権に参戦するべきだ」と熱心にベルガー(と父)を説得。マルコの推挙で1983年のヨーロッパF3選手権へのフル参戦が決まった。型遅れのシャシー(ラルト・RT3)ながら最高位2位を2回記録するなどランキング7位を獲得。多くのF3チームから勧誘を受けるようになった。同年11月のマカオF3では、優勝したアイルトン・セナ、2位のロベルト・ゲレーロに次いで3位表彰台に立つ。この頃になるとマルコを通じて母国の大スターであるニキ・ラウダからも応援されるようになり、BMWにもマルコがパイプ役となりETC(ヨーロッパツーリングカー選手権)に参戦するBMWのグループAプロジェクトの一員となった。1984年のF1デビュー後も、1985年までETCにも並行して参戦し続けBMW・635CSiをドライブ。85年スパ・フランコルシャン24時間レースロベルト・ラバーリアマルク・スレールとのチームで優勝している。「BMWの秘蔵っ子」と呼ばれF1でもデビュー以後BMWと縁の深いチームへの在籍が続くことになる。

 

1986年

過去2シーズンと同様にBMWエンジンを積むベネトンに移籍。開幕からの連続入賞や、第3戦サンマリノGPで初表彰台、第5戦ベルギーGP予選でのフロントロー、計2度のファステストラップなどで存在をアピールした。

第15戦メキシコGPでは、タイヤ無交換作戦が当たり[3]、F1デビュー3年目(フル参戦2年目)にして初優勝。これはベネトンチームにとってもF1初優勝であり、この年チャンピオン争いを繰り広げた4人(アラン・プロストナイジェル・マンセルネルソン・ピケ、アイルトン・セナ)以外が挙げた唯一の勝利でもあった。ランキングは7位と前年からさらに上昇。

シーズンが終わるとベルガーのもとには残留を望むベネトンと、マクラーレンと、フェラーリからのオファーが届き、3枚の契約書を並べてどこに行くべきか悩む状況になった[1]。ベルガーは先輩のニキ・ラウダに助言を求め、「サインを急がなくていい。ジョン・バーナードの行く先が決まってからにした方がいい、彼のいるチームに行くべきだ」とアドバイスを受け、バーナードがマクラーレンを離れフェラーリ入りするのが決まってからベルガーもフェラーリ行きを決め契約した[1]

 

1987年

第12戦ポルトガルGPで初PP(決勝は2位)。第15戦日本GPでは自身初のポールトゥーウィンを達成、低迷期を過ごしていたフェラーリチームに2年ぶりのF1勝利をもたらす。さらに続く最終戦オーストラリアGPでもポールトゥーウィンで完勝し2連勝と最高の形でシーズンを終え、ドライバーズ・ランキングを前年より更に向上させ5位で終える。

 

 

1988年

エンツォ・フェラーリが死去して間もない時期に開催された第12戦イタリアGPでは、トップを快走していたアイルトン・セナが、残り2周で周回遅れのジャン=ルイ・シュレッサー(このGPだけ病欠したナイジェル・マンセルの代役参戦)と接触しストップ。2位にいたベルガーが、フェラーリの地元GPにて最後の最後で繰り上がるかたちで「弔い合戦」を制した。2位にはチームメイトのアルボレートが入り、イタリアでフェラーリの1-2フィニッシュとなったこと、結果的にこの年マクラーレン勢以外が記録した唯一の勝利となったことなども重なり、「記憶に残る勝利」として後々まで挙げられる要因となった。

1989年

フェラーリでの3年目、ティレルに移籍したアルボレートに代わってウィリアムズからナイジェル・マンセルが加入。第2戦サンマリノGP決勝では、フロントウイングのトラブルに見舞われ、高速コーナーのタンブレロでコースアウト、そのままウォールに激突した。レース序盤でガソリンが多量に残っていたこともあって、大破したマシンが炎上したが、コースマーシャルの迅速な消火・救出作業により、ベルガー本人は顔や手の軽い火傷のみで済み、第4戦メキシコGPには復帰した。この炎上事故が発生したことで、後に燃料タンクの搭載位置に関するレギュレーションが変更されることになった。

参戦した15戦中12回のリタイヤだったが、完走した3戦ではすべて2位以上であり、

第13戦ポルトガルGPでは自身F1での5勝目をマーク。ランキングでは7位に踏み留まったが、チーム内の支持は2勝を挙げたマンセルに移ったこともあり、翌年からのマクラーレン・ホンダへの移籍を決意する。

 

1991年

終盤に近付くにつれ調子を上げ、第13戦ポルトガルGP・第14戦スペインGPでは共にリタイヤとなったものの、予選では連続でセナを破っていた。

第15戦日本GPでも、予選で1分34秒700のコース・レコードを叩き出し、スペインGPに続いてPPを獲得(このタイムは、最終シケインの改修でコース距離が短くなった2001年にミハエル・シューマッハによって破られるまで、10年あまり鈴鹿サーキットのコースレコードだった)。決勝では、終盤エキゾーストパイプが割れるトラブルが発生したがポールトゥーウィンを飾り、ようやくマクラーレン・ホンダ移籍後の初勝利を挙げる。

ただし、これはレース序盤のマンセルのリタイヤによってワールドチャンピオンが決まっていたセナが、最終ラップの最終コーナーでスローダウンしトップの座を露骨に譲るという行為によるものであり、譲られたベルガーは不快感を示したとされ、後に「(セナの急激なペースダウンを見て)トラブルが発生したのかと思ったが、最後にこちらに譲ろうとしていると分かっていたら、自分もアクセルを踏むのをやめていただろう」と語ったこともある。マクラーレンのドライバーの間では通例としてレース前に「序盤にトップに立った者が優勝を得る」という約束が取り交わされており、このレースで当初トップに立っていたベルガーをセナが抜いて一度突き放し、最後に再び前に出した経緯が、問題を複雑化させる結果となった。この年もランキングは前年と同じ4位となった。