Duran Duran - Hungry like the Wolf (Official Music Video)
Duran Duran - Hungry Like The Wolf - 12/31/1982 - Palladium (Official)
Duran Duran - Hungry Like the Wolf (Night Version) - Extended Version
1983年頃、とにかく同級生でDURAN DURANのジョン・テイラー好きの子がいっぱい いた
DURAN DURANのメンバーの中で、誰が好きか?
大半が「ジョン・テイラー」と答えていた
確かに男前で かっこいい としか言いようがない
しかも性格が良いので、火の打ちどころが無い。
そんなジョン・テイラーも、デビュー前はメガネをかけていてルックスが全然違っていたとは
このMusic Videoも僅か3分41秒ながら、
映画のようなストーリー性が詰まっている名作だ。
ナイジェル・ジョン・テイラー(英語: Nigel John Taylor、1960年6月20日 - )は、ベーシスト、またニュー・ウェイヴバンドであるデュラン・デュランの共同創設者として最も良く知られているイギリスのミュージシャン、また俳優である。
デュラン・デュランは1980年代に初期のMTVで繰り返し放送されていた革新的なミュージック・ビデオが世界中で有名となったグループの一つである。テイラーはデュラン・デュランが結成された1978年から1997年にグループを去るまで、ソロ・レコーディングや映画の仕事に専念した。
彼は自社「Trust The Process」を通じて4年間にわたって12曲のソロリリース(アルバム、EP、ビデオ)を録音し、映画『Sugar Town』では主役を務め、また6作の他の映画プロジェクトにも出演した。彼は2001年、5人の初期メンバーの再会のために再びデュラン・デュランに加入し、それ以来グループでの活動を続けている。
テイラーはまたスーパーグループのうちの2つ、パワー・ステーションとニューロティック・アウトサイダーズのメンバーでもあった。
ジョン・テイラーはイングランド、バーミンガム郊外のハリウッドで育った。子供のころ、彼はアワー・レディ・オブ・ザ・ウェイサイド・カトリックスクールとレディッチのアビー高校に在学しており、
重度の近視のため眼鏡を着用していた。
彼はジェームズ・ボンドの映画を好み、趣味は手塗りの兵士での戦争ゲームであった。10代の初めに、彼は音楽を発見し、ロキシー・ミュージックをお気に入りのバンドとして挙げ、やがてレコードを集め、独学でピアノを学んだ。彼の初のバンドはショックトリートメントと呼ばれた。
1978年、テイラーと学校の友人ニック・ローズはバーミンガム工芸学校(現バーミンガムシティ大学)に在学している間、スティーブン・ダフィーとともにデュラン・デュランを結成した。間もなくしてテイラーは眼鏡を外してコンタクトレンズを装着し、みにくいアヒルの子のような変身を遂げ、ニューロマンティックスタイルとして知られるようになったフリルとサッシュのファッションを取り入れ、アイライナーと口紅をつけることを覚えた。「ナイジェル」という名前の使用をやめ、プロとしての経歴の間ジョン・テイラーの名で知られている。
デュラン・デュランが結成されたときはテイラーはギターを演奏していたが、シックのファンキーなリズムに出会ったのちに、ベースギターへと切り替え、そしてデュラン・デュランの新入ドラマーのロジャー・テイラーとのリズムセクションで楽しんで演奏することを学んだ。彼はシックのバーナード・エドワーズとザ・クラッシュのポール・シムノンを自分に最も影響を与えた人物として挙げているが、それに加えてポール・マッカートニーやジェームス・ジェマーソン、ロキシー・ミュージックの演奏者であるグレアム・シンプソンとジョン・ポーターも参考にしていた。デュラン・デュランは1981年に初のアルバムをリリースし、1980年代はじめには世界的な成功を収めた。[1]
デュラン・デュランの初期の音楽は「グッドタイムズ」 のようなファンクやディスコの音楽をモデルとしたテイラーのメロディックなベースラインを顕著に出す傾向がある。俗説に反して、テイラーはバンド・エイドのチャリティーシングルである「Do They Know It's Christmas?」でベースを演奏せず、そのベースラインはオスカーシンセサイザーで演奏された。
1980年代初めデュラン・デュランが有名になるにつれて、テイラー個人も有名になっていった。彼の写真はティーン向けの雑誌では定番となり、彼は『ピープル』マガジンの最もセクシーな男性の年間リストに掲載されるなど、多くの人気票を勝ち取った。
彼はロンドンやパリの家で贅沢なライフスタイルを送り、あまり車を運転する機会が無いにも関わらず、彼がいつも夢見ていたボンドスタイルのアストンマーティンを含む何台かの車を所有していた。彼はボンドガールのジャニーン・アンドルーズや、1980年代の顔であったレニー・シモンセンなどのファッションモデルたちとデートした。
1985年、ジェームズ・ボンド映画『007 美しき獲物たち』の主題歌でトップチャートに上ることとなるシングルの収録を終えた後、デュラン・デュランは2つのサイド・プロジェクトに分裂した。ジョン・テイラーとアンディ・テイラーは、シックのドラマーだったトニー・トンプソンや、1983年にアストン・ヴィラサッカーグラウンドで開催されたデュラン・デュランのチャリティーコンサートで出会ったことのあった歌手ロバート・パーマーと一緒にバンド、パワー・ステーションを立ち上げた。プロデューサーのバーナード・エドワーズの元で、アルバムをリリースしたパワー・ステーションは「サム・ライク・イット・ホット」や、T・レックスのカバー曲である「ゲット・イット・オン」などといったヒットシングルを生み出した。
その年、テイラーはまた最初のソロ活動を開始し、映画『ナインハーフ』サウンドトラックからのシングルである「I Do What I Do」のレコーディングをした。彼はまた共同開発者ジョナサン・エリアスと共に映画の楽曲のスコアを書いた。
アンディ・テイラーとロジャー・テイラーがデュラン・デュランを脱退したが、3人の残ったメンバーは1986年のアルバム『ノトーリアス』を発表し、新しいギタリストのウォーレン・ククルロと共に1990年代までツアーを行った。副業としてテイラーはアリソン・アンダースの映画『Mi Vida Loca』で使われた何曲かのサウンドトラックを含むかなりの量の未発表のソロ曲のレコーディングを行った。
1991年12月24日、テイラーは19歳のアマンダ・デ・カドネと結婚した。彼女はすでに彼の子供アトランタ(1992年3月31日に誕生)を妊娠していた。彼は英国のタブロイド紙から逃がれ、妻の女優としてのキャリアを守るために、イングランドからロサンジェルスのカリフォルニアに移住した。ちょうどデュラン・デュランが『ザ・ウェディング・アルバム』の名で知られている1993年代のアルバム『デュラン・デュラン』の成功によって人気が上昇した時であり、テイラーの結婚はうまくいかなかった。1994年後半、テイラーは薬物乱用の治療を求めて以来、しらふを保っていた。1995年3月、彼とデ・カドネは離婚した。
2000年、テイラーはロサンゼルスの自宅で、デュラン・デュランのオリジナル・ラインナップでの再結成の可能性についてサイモン・ル・ボンにもちかけられ、彼は他の2人(1986年にバンドを離れたロジャーとアンディ)も同様に合流するという意思があるならば、そのアイディアに対して意欲的であると伝えた。
合意はすぐに得られ、そしてテイラーは右腕の上側にリンクされたDの文字の大きな入れ墨を入れる事によってバンド(Duran Duran)への彼の新たな関与を実証した。
2003年に日本で大変成功を収めたツアーを終えた後、エピックレコードで契約を結び、2004年10月にアルバム『アストロノート』をリリースした。彼らは次の新しいアルバムの作成に取り組むためスタジオに戻る前に2005年の前半はツアーをしてまわった。2006年10月にギタリストのアンディ・テイラーが再びバンドを脱退し、このセッションの録音(Reportageの仮タイトルがついた)はバンドが有名なプロデューサーのティンバランドと仕事をする機会を得た際に除外された。その結果できたアルバム『レッド・カーペット・マサカー〜美しき深紅〜』 は2007年11月にリリースされた。そのリリースを祝うためにバンドは、2008年の世界ツアーでニューヨークのブロードウェイで10回の特別公演のためにアルバム全体を演奏するという前例のない一歩を踏み出した。
2006年、ジョンとニック・ローズは『オンリー・アフター・ダーク』と題したコンピレーション・アルバムに協力した。2010年12月、バンドの通算13作目となるスタジオアルバム『オール・ユー・ニード・イズ・ナウ』を自身のレコードレーベルであるTapemodernでリリースした。最初に短縮バージョンがiTunesで配信され、2011年3月から店舗販売が開始された。
2013年2月に、彼はミュージックレーダーでの最高のベーシストの票を獲得した。[5]
「Hungry Like the Wolf / Duran Duran」