Jean Alesi's Unforgettable Victory | 1995 Canadian Grand Prix
1995年 F1グランプリ 第6戦 カナダ
1990 アメリカGP F1
F1 1989 第7戦 フランスGP(2010年版)
ジル・ヴィルヌーブをこよなく愛し、
1989年F1フランスGPデビュー時から衝撃的な走りで好きなドライバーだったジャン・アレジ
ジルと同じフェラーリのエース・ナンバー27を付け、
1995年F1カナダGPでの初優勝は鮮明に記憶しています
フェラーリ不調の時期だった為、この1勝のみだったのが残念でしたが、
その印象的な走りは、息子さんのジュリアーノに受け継がれます。
今やワイン資格士を持ち、経営者としての活躍
ジャン・アレジ(Jean Alesi, 1964年6月11日 - )は、フランス出身の元レーシングドライバー、実業家、資産家。
フランスF3(1987年)、国際F3000(1989年)でチャンピオンを獲得。F1ではフェラーリなどで活躍し、アグレッシブな走りで人気を博した。F1引退後はDTMなど様々なカテゴリに参戦した。
パートナーは日本の女優でモデルの後藤久美子。後藤との間に生まれた長女はモデルのエレナ・アレジ後藤、長男はレーシングドライバーのジュリアーノ・アレジ。
1989年フランスGPでティレルよりデビューした。このレースより昨年までスポンサーであったキャメルが再度ティレルのスポンサードを受けることになり、マールボロドライバーだったミケーレ・アルボレートがチームを去ったため、キャメルの支援を受けるEJRのアレジに声がかかった。このレースでいきなり4位入賞を果たし、注目を浴びた。
以後もティレルから継続して参戦したが、国際F3000を優先したため2レースを欠場した。フランスGP以降、イタリアGP(5位)とスペインGP(4位)で入賞した。
1990年、チームメイトに中嶋悟を迎えてティレルからF1フル参戦を果たした。開幕戦アメリカGPでは予選4位からスタートで先頭に立ち、34周目までトップを快走。35周目には、後方から迫るマクラーレンのアイルトン・セナに一旦抜かれるも、次のコーナーで鋭く抜き返すというバトルを演じ、再び抜かれたが、2位初表彰台を獲得した。第3戦モナコGPでも、予選3位からマクラーレンのゲルハルト・ベルガーを抑えて再び2位を獲得。非力なフォードDFRユーザーながら、斬新なハイノーズを採用した019と、ピレリの予選用タイヤ効果もあり、予選ではしばしば4強チーム(マクラーレン・フェラーリ・ウィリアムズ・ベネトン)を喰う速さをアピールした。その一方、レースではスピンや接触など粗さが顔を出すこともあった。イタリアGPでは赤旗再スタートを含む2回のオープニングラップで2台のフェラーリを抜き、マクラーレンのセナやベルガーの背後に近づいたが、単独スピンでリタイアした。スペインGPも予選4位を獲得しながら、スタート直後にベルガーと接触してリタイアした。
1995年、第6戦カナダGPでベネトンのミハエル・シューマッハのマシントラブルでトップに立ち、F1参戦92戦目(出走は91戦目)で初優勝を果たした。憧れのジル・ヴィルヌーヴの名前を冠するサーキットで、ジルと同じカーナンバー27のフェラーリでの勝利であった。また、決勝が行なわれた6月11日はアレジ自身の誕生日でもあった。当時としてはティエリー・ブーツェンの96戦に次ぐ2番目に遅い初優勝。F1におけるV12エンジン最後の優勝でもある。「国際F3000(後のGP2にあたる)チャンピオンはF1では優勝できない」という当時のF1界のジンクスを打ち破る勝利でもあった。
- 少年時代はジル・ヴィルヌーヴが憧れのドライバーで、自宅の部屋には等身大のポスターが飾ってあったという。フェラーリ移籍初年度だった1991年のカーナンバーは28だったが、翌1992年にはチームに頼み込んでジルと同じカーナンバー"27"を得た。また、1986年に事故死したエリオ・デ・アンジェリスも尊敬しており、自身のヘルメットデザインはデ・アンジェリスの物をベースにしたデザイン「サイドに赤と黒のストライプ」となっている。このヘルメットデザインは息子のジュリアーノ・アレジも受け継いで使用している[5]。
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- 離婚前から日本の女優後藤久美子と交際しており、のちに事実婚の形で婚約。後藤がアレジの熱心なファンで、日本のファンクラブパーティーで知り合ったことから交際するようになったという。1995年の初優勝時には日本向けのインタビューで交際宣言を行い、しばしワイドショーを賑わした。その後、後藤との間に3子を儲けた。TOYO TIRESのCMにも後藤と出演。親日家であり、度々日本を訪れバラエティー番組にも出演していた。
- アレジはワイン鑑定士の資格を持ち、家族と住んでいるアヴィニョンの故郷の近くにブドウ園を持っている。
- 息子のジュリアーノが2020年にフェラーリ・ドライバー・アカデミーの一員から外され、ジュリアーノがFIA F2へ参戦継続するための資金が必要になった。アレジは自分がフェラーリ所属時代から大事にしていたフェラーリ・F40を手放し約100万ユーロ(1億2000万円)の資金を作り「ガレージに置いてあるF40を見てるより彼(ジュリアーノ)がレースしてる姿を見たかったんだよ。それにF40を運転するには私は年を取った(笑)」[7]とジョークを交えてコメントしたが、一方でシビアに「もはやこれ以上は息子のレース資金のために私がカネを工面することはできない」とも語った[8]。