Cozy Powell & Band - Killer / Pots & Pans

 

 

2番目のYoutube、当時まだ16歳であったkyo yoshidaさん(現・よしださくらさん)のブルースを完全に弾き切っている素晴らしさに感動し、

 

以来、ずっと応援しています。

 

Haganeというバンドを結成し、大活躍中ですビックリマーク

 

コージー・パウエルは、亡くなり方も派手過ぎました。

酩酊してそのまま車を運転し、しかも彼女と携帯で会話中に中央分離帯に激突して事故死。

あまりにも、あっけない。

 

 

コージー・パウエルCozy Powell、本名:Colin Flooks1947年12月29日 - 1998年4月5日)は、イングランド出身のドラマーロックミュージシャン

 

その実力を買われ数多くのロックバンドを渡り歩き、ロック・ドラムヒーローの先駆者としても知られる[1]。身長175cm。

 

ローリング・ストーン誌選出「歴史上最も偉大な100人のドラマー」43位。

 

[2] 12歳の時に、学校のオーケストラの一員としてドラムを始める。1960年代に、セミプロのポップ・バンド「ザ・ソーセラーズ」に加わり、ドイツのライブハウスを巡る。1968年にイギリス・バーミンガムに移り住み、ザ・ムーヴのベーシスト、エース・ケフォードの「エース・ケフォード・スタンド」やセッション・ドラマーとして活動する一方、ザ・ソーセラーズのメンバー、デイヴ・ボール、デニス・ボールらと「ビッグ・バーサ」を結成して活動する。

 

1970年ジェフ・ベックに見出され、1971年に第二期ジェフ・ベック・グループのドラマーとして名を上げる。

 

グループ消滅後はセッション・ドラマーとして仕事を続け、録音した個人名義のEP『Dance with The Devil』(1972年)が、1974年になってスマッシュ・ヒット作となり、自身の名を冠したバンド、コージー・パウエルズ・ハマーを結成する。

1975年リッチー・ブラックモアレインボーのオーディションに応募し、第2期レインボーを支えるドラマーとなる。また、1979年に初のソロ・アルバム『オーヴァー・ザ・トップ』発表。

「Theme one」は、BBCの音楽番組トップ・オブ・ザ・ポップスのオープニング曲に使われ、タイトル曲は、チャイコフスキー序曲1812年」に合わせてのドラム・ソロ(レインボーのライブでも披露されていた演出)が収録されている[3]

 

レインボーでのパフォーマンスが認められ、1980年代にはグラハム・ボネットロバート・プラントマイケル・シェンカー・グループホワイトスネイクエマーソン・レイク・アンド・パウエルブラック・サバス等、ハード・ロックを代表するドラマーとして数々のレコーディングやバンド・メンバーとして契約した。

1990年代には、ベーシストニール・マーレイと組んで、ブライアン・メイピーター・グリーンのバンドに参加。その他、イングヴェイ・マルムスティーン等と共演。

 

レーサーへの転向を考えて一時期音楽をやめた[注 1]こともあるほど自動車の運転が好きだった。

1998年4月5日未明、イギリスブリストル郊外の高速道路にて、サーブ・9000ターボをシート・ベルトをせず酩酊下で運転かつガールフレンドと携帯電話で会話しており、時速167kmで中央分離帯に衝突事故を起こし、この世を去る。

その2ヶ月後に発売されたブライアン・メイのアルバム『アナザー・ワールド』が遺作となった。コリン・ブランストーンのアルバム『ザ・ライト・インサイド』が最後のレコーディングであるとの話もある。

 

後述するように、死去から20年以上たった現在でも、根強いファンがいる。

 

若くしてその実力を認められ、1970年代から多くのロックバンドを中心に在籍した。しかも名だたる著名なグループが主であり、セッションやレコーディングのみの仕事も数多かった。また、ドラマーとしては稀有な、ソロや冠名義のアルバムも数多く制作している。実像は職人肌で自分に正直な性分から一つの枠に納まる器ではなく、バンドを転々とした経緯から業界からは「渡り鳥」などとも言われた。

 

ザ・フー」の キース・ムーンや「レッド・ツェッペリン」の ジョン・ボーナムらと並ぶ『ロック・ドラムヒーロー』の先駆者としても知られ、当時は地味だったドラマーの存在を華やかなプレイで一変させた。その実力を買ったツェッペリンのマネージャー ピーター・グラントジェフ・ベックも担当していた繋がりで、「ジェフ・ベック・グループ」のオーディションに推薦して貰った経緯を後年に明かしている[4]

 

そのイメージとは裏腹に音楽に対しては几帳面であり、音楽プロデュースの方面に携わることも多かった。これまで在籍していたバンドの貴重なデモテープを、個人で管理していたことが死後に判明している。

 

死後、コージーの功績を称えるセレモニーやトリビュート・ライブが各地で行われている[5]

 

2016年1月7日、イタリア人女性ピアニストの声掛けで集った生前の仲間達の下、コージーの故郷であるグロスタシャー州サイレンセスターのコーン・ホールにて、青色記念銅板(Blue Plaque)が設置された。 没後18年で開催されたこの除幕式にはサイレンセスター市長マーク・ハリス、ブライアン・メイトニー・アイオミカール・パーマースージー・クアトロニール・マーレイバーニー・マースデン、トニー・マーチン、テッド・マッケンナ、ポール・レイモンド、ジョー・ゲーシン、フレッド・リーなど、デビュー前から晩年に渡って音楽活動を共にした多くのアーティストが集まった[6]

 

2019年には日本でも、ファンだった有志が岡山市にてコージーを称える私設博物館を開設し、話題となっている[7]