OZZY OSBOURNE - "Mr. Crowley" 1981 (Live Video)
OZZY OSBOURNE - "I Don't Know" 1981 (Live Video)
OZZY OSBOURNE - "Crazy Train" (Official Video)
Ozzy Osbourne- Flying High Again
Ozzy Osbourne - Goodbye to Romance
Enhanced Revelation Mother Earth Ozzy Randy Rhoads Live Chicago Jan 24, 1982
Ozzy Osbourne & Randy Rhoads flying high again live 1982
Ozzy Osbourne - Diary of a Madman (Full Album)
以前のmayu 浦和 音楽ブログには毎年欠かさず3月19日の命日には
ランディ・ローズを追悼するブログを書いていました。
前ブログが去年の3月31日にアメブロ運営によって消されてしまったので、
昨年も書いております。
素晴らしい才能が25歳と若くして将来を失ったのは本当に残念なことです。
この1982年はその僅か1.5か月後にF1の英雄 ジル・ヴィルヌーブも亡くなっており、
本当に悲しい年でした。
スペインW杯が開催された年であり、マラドーナが退場でアルゼンチン敗退、
西ドイツ代表の若きピエール・リトバルスキーが活躍し、
パオロ・ロッシの活躍でイタリア代表が優勝した大会です。
エイジアが1st ALBUMをリリースし、
私が洋楽を聴き始めた年でもあります。
いつもランディ・ローズの命日になると1982年に自分が何をやっていたかを思い出します。
まだ中一の若い子が、カセットテープやFM、レコードで音楽を聴いていた時代です。
ランディ・ローズが後世のギタリストに与えた影響は多く、
これからも稀有な才能として語り継がれることでしょう。
NONFIX特別企画「ランディ・ローズに捧ぐ」
2002年3月30日(日) 26:45~27:45
『もしもランディが今世に知られたとしても、素晴らしいギタリストであることに変わりはなかっただろう。ジミ・ヘンドリックスのように、時が経っても色褪せないんだ。』
- ~オジー・オズボーン~
- ~シャロン・オズボーン~
- ~ザック・ワイルド~
「Crazy train」と「DON'T BLAME ME」に使用された映像は、唯一オフィシャルとしてオジーの手元に残る、「AFTER HOURS」というテレビ番組用に1981年4月28日に、NY, Rochesterで収録されたものだった。
2002年3月19日はランディ・ローズの20周忌にあたる命日である。
NONFIXは400回突破の特別企画として、この番組をランディ・ローズに捧げたい。
ランディ・ローズ(Randy Rhoads、本名ランドール・ウィリアム・ローズ、男性、1956年12月6日 - 1982年3月19日)は、アメリカのギタリスト。クワイエット・ライオット及びオジー・オズボーンのバンドの初代ギタリストであったことで知られる。1982年3月19日、オジー・オズボーン・バンドの全米ツアー(Diary of a madman tour)中に遊覧飛行で乗った軽飛行機の墜落事故により、25歳で生涯を終えた。身長170cm。
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」において2003年は第85位、2011年の改訂版では第36位。
1956年12月6日、カリフォルニア州・サンタモニカのセント・ジョーンズ病院で生まれる。1963年の誕生日に、祖父からギブソンのアコースティック・ギターをプレゼントされ、ギターを始める。ランディの当時の憧れは、エルヴィス・プレスリーであったという。
1965年、8歳の頃、ロックギターに目覚める。1969年から、母親の経営する音楽学校で講師をしていたスコット・シェリーからエレクトリック・ギターのレッスンを受け始める。1年過ぎた頃には、スコットから「僕が教えられることを彼は総て覚えている」と言われるほど上達していた。また、同時期に母親の勧めでピアノのレッスンも受けていた。こちらはあまり長続きはしなかったが、楽譜を読むことをマスターした。
1970年頃、兄ケル・ローズと共にヴァイオレット・フォックスを結成。バンド名の「ヴァイオレット」は、母のミドルネームから拝借されているが、バンドは5か月で解散している。後のクワイエット・ライオットに参加するまでの間は、ディープ・パープルのリッチー・ブラックモアをひたすらコピーし、腕を磨いたと言う。同時期、後にクワイエット・ライオットに参加するケリー・ガルニと出会ったのもこの頃であった。
1973~1975年頃、クワイエット・ライオットを結成するまでの間、幾つかのローカルバンドで活動する傍ら、母親の音楽学校でギターの講師を勤める事になる。ランディの生徒の中には、後にオジー・オズボーンバンドに加入するジョー・ホームズの姿もあった。
ランディは、後に「生徒に教えることで逆に多くのことを学んだ」と、振り返っている。
1975年、ランディを中心にクワイエット・ライオットが結成される。
デビューライブには1,500人以上ものファンが押し寄せた。
1977年、デモテープを制作し、各国のレコード会社にテープを送ったものの、最終的にコンタクトが取れたのは日本のCBSソニー(現ソニー・ミュージックレコーズ)のみであり、これにより、本国アメリカではデビュー出来なかったものの、日本でのデビューを飾るところまでに扱ぎつけることとなった。
1978年3月、CBSソニーより『静かなる暴動 (QUIET RIOT)』で日本デビューを飾る。12月には、セカンド・アルバム『暴動に明日はない (QUIET RIOT II)』をリリースするも、このアルバムも日本のみのリリースで、全米で発売される事はなかった。
1979年、ランディはルディから「ブラック・サバスを脱退したオジー・オズボーンが新しいギタリストを探している」と教えられる。当時のランディは朝に練習、昼から夜まで講師としての活動、週2~3日はバンドの練習、週末にはライブと多忙であり、
ランディ自身も「僕はクワイエット・ライオットをやっているから興味がない」と断っていたが、オジーの友人であるダナ・ストラム(スローター)がオジーに「オジー、君はイギリスに帰る前に必ずランディのプレイを観るべきだよ」と勧めたこと、母ドロレスの「オジーは長い間、ミュージック・ビジネスにいるんだし、そう言う人に会う事も必要よ」と告げたこともあり、オジー・オズボーンバンドのオーディションを受けに行く事を決意した。
ランディは夜遅く、オジーの泊まるホテルに行き、ギターのチューニングを開始すると同時にオジーは「You got a job!」(さあ、君に決まりだ!)と大きな声で叫び、バンド加入が即決した。
オジーやマネージャーであるシャロン・アーデン(現シャロン・オズボーン)曰く、ランディの全身から放つオーラに惹かれたことで加入を決めたと振り返っている。